二条城の歴史を年表で簡単まとめ!歴史的背景や大政奉還の理由も

2019年12月19日

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こんた

今回は二条城の歴史について紹介します。

  • 二条城について
  • 歴史を年表で紹介します
  • 歴史的背景や大政奉還の理由を調査しました。

等々、紹介します。

二条城について

元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)
ウィキペディアより

現在は、元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)と言う名称で呼ばれています。

江戸時代に造営されました。

朝廷が徳川家康の征夷大将軍職に任命する祝いの儀式をした場所でもあり、徳川慶喜の大政奉還が行われた場所でもあります。

江戸幕府の始まりと終わりの場所になるんですね。ここから江戸時代が始まって、ここで終わりを迎えるとは。何とも言えない運命やったんですかね?

 

二条城の歴史を紐といて行きたいと思います。

歴史を年表で紹介します

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こうさん

年表を使って簡単に二条城の歴史をみていくよ。

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おつさん

幕府は「二条城」呼んでいたけど、朝廷側は「二条亭」と呼んでいたんだって!

 

1601年 5月 関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が、上洛した際の宿所にするため大宮押小路に築城を決め、町屋の立ち退きを開始させる。

12月 徳川家康が西日本の諸大名二条城の築城を背負わせる

負けた方に負担がかかるんやね…(-_-;)

 

1602年 5月 御殿・天守の造営を着工する

1603年 2月12日 家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨(せんじ)を受ける。

※宣旨(せんじ)天皇の命を伝える文書

3月12日 完成したばかりの二条城に (現在の二の丸部分) 家康初めて入城する。天守は1606年に完成。

 

徳川家・江戸時代の始まりの場所ここから200年以上も続いていくんですね。

 

1611年 3月 二条城の御殿(現在の二の丸御殿)で、 豊臣秀頼は加藤清正らをともない家康と会見(二条城会見)が行われる。

この時、秀頼の成長ぶりに驚き家康は徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱いたと言われています。そのため豊臣氏を滅ぼすことを決意したとか。

 

家康が危機感を持つくらい、秀頼の成長した姿は立派やったんですね。

 

1614年 12月 二条城内で大阪冬の陣の軍議を開き当城より出陣する。大坂冬の陣が勃発。

二条城は大御所(家康)の本営となる。伏見城から出撃する将軍秀忠の軍勢に続いて、家康は二条城から大坂へ。

 

1615年 5月 城内で大阪夏の陣の軍議を開き二条城より出陣する。

 

大坂夏の陣においては二条城に火をつけ混乱を利用して家康を暗殺しようとする陰謀が有り(未遂で終わる)、徳川方についていた古田織部の家臣・木村宗喜が捕縛された。

このため織部は切腹、家財没収となる事件がおこっていた。

捕縛とは、捕らえられて縛られる事

 

大阪冬の陣・夏の陣もある意味二条城が関わっているんやね。歴史的に見ても大事な場所やったんですね。

 

1619年 秀忠は娘・和子が、後水尾天皇へのに入内(※皇后・中宮・女御となる女性が正式に宮中に入る事)に備え、二条城の改修を行う。

この時の基本設計は、秀忠自らが藤堂高虎と共に行う。

 

1620年 6月18日 徳川和子は二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内。

 

1624年 3代将軍家光が、後水尾天皇行幸を迎えるため城の拡張・殿舎の整備をはじめる。

 

1626年 本丸・二の丸・天守閣完成。現在の規模になる。

9月 後水尾天皇二条城行幸(※行幸とは、天皇の外出をいう)(5日間) この行幸が二条城の最盛期になった。

上皇となった後水尾院の御所に、行幸のために新たに建てられた行幸御殿を移築する。が、その他多くの建物が解体撤去された。

 

1633年 7月 小堀遠州が二条城内に茶室をつくる 翌年6月完成する。

1634年 7月 秀忠死後に、家光が30万人ともいわれる大軍を率いて入城。

この後、二条城には、二条在番を置き留守居をさせる。

 

これを最後に幕末まで二条城に将軍が来ることが無くなる

幕末の動乱期までの230年間、二条城は歴史の表舞台から姿を消すことに

 

3代目の将軍までは、二条城に来ていたんですね。ここからは二条城不遇の時代です。

1660年 4月 大風雨のため被害をうける。

1662年 5月 大地震により二条城内各所の施設が被災する 11月 修理に着手する。

1677年~1680年まで 本丸・二の丸施設破損の修理をする。

 

1686年 二の丸殿舎の破損調べ27年年かけて修理される。二の丸・現在の殿舎除く他の施設をとりこわされる。

 

1750年 8月 雷による火災によって、五層の天守閣焼失する。

1788年 1月 市中の大火により 本丸御殿などが焼失。火災の原因は飛び火。本丸御殿、隅櫓などが焼失する。

破損部分に関しては修理が行われたのに、焼失した建物については再築されず。そして、そのまま幕末を迎える。

 

1830年 7月 大地震により被災する。

1832年 7月 地震による破損を修理する。

 

ここまでは、自然災害などにあって潰れては修復の繰り返しやったんですね。結局、修復されてない箇所もありますが、200年の間に地震が2回も、そう考えると日本てほんまに地震がおおいんやなって(-_-;)。

 

1862年 徳川家茂の上洛にそなえて、荒れ果てていた二条城の改修が行われる。

二の丸御殿は全面的に修復され、本丸には仮御殿が建てられた。

 

1863年 14代将軍家茂入城 (3代将軍家光が入城して以来、229年ぶりの将軍の入城)。

1866年 城内において慶喜が15代目の将軍職を継ぐ。

1867年 10月 二の丸御殿大広間に在京諸藩の重臣をあつめて、慶喜が大政奉還の意思を表明した。

 

200年以上続いた徳川幕府・江戸時代の終わりをむかえる。

 

幕末になってやっと、14代目の将軍・家茂が入城。そして、慶喜が15代目の将軍になる。本人は嫌がっていたみたいですが、行き先不安な情勢の中将軍にはなりたくないですもんね。

徳川幕府の始まりと最期を見届けた二条城の歴史を簡単ですが紹介しました。長い年月荒れ果てていたそんなイメージをもってしまいましたが、今では京都を代表する観光名所のひとつですね。

 

ここからは、近代史から、現代にかけて簡単に紹介します。

 

明治時代

1868年 1月 城内に太政官代を置く 。(現在でいう内閣にあたります)

1871年 二の丸御殿内に府庁を置く。(のちに一時、陸軍省になる※陸軍省は終戦で 1945年 11月廃省になる)

1884年 皇室の別邸 「二条離宮」となる。(宮内省所管に)

1893年 京都御所の北東にあった桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿とする。翌年完了する。

 

大正時代

1915年 大正天皇のご即位が行われる。大饗宴場を造営(現在の清流置の位置)。南門ができる。

 

昭和時代

1939年 宮内省が二条離宮を京都市に下賜(かし)※天皇など身分の高い人が身分の低い人に物をくださること。

1940年 2月11日 恩賜元離宮二条城として 一般公開をはじめる。

1952年 文化財保護法の制定によって、二の丸御殿6棟が国宝に指定される。東大手門など22棟の建物が重要文化財に指定される。

1953年 二の丸庭園が特別名勝に指定される。

1965年  清流園が造成される。

1982年 二の丸御殿の障壁画が重要文化財に指定される。

 

平成時代

1994年 ユネスコの世界文化遺産に登録される。

2005年 二条城障壁画 展示収蔵館 開館する。

2011年 二条城本格修理事業に着手。

2014年 東大手門の修復工事がはじまる。

2017年 3月 東大手門の修復工事が終わる

 

最近では、国宝、重要文化財、世界遺産登録と文化財としての価値が認められているんですね。一時代の始まりと終わりに立ち会った二条城の歴史を振り返ってみると、他の歴史上の出来事と繋がりがあり歴史も紐解いていけばパズルのようにつながっているんですね。

歴史的背景や大政奉還の理由

歴史的背景。

実は、徳川家康が築いた二条城の他にも二条城のと呼ばれる建物が存在していました。

 

時はさかのぼって足利将軍時代・室町時代から二条城ありました。

ただし現在の場所とは違う場所にたっていたことから、通説として旧二条城と現在の二条城と分けて考えられています。

 

もともと足利尊氏から3代将軍義満まで、二条に屋敷を構えていました。

将軍家の屋敷を二条陣・二条城と呼んでいたのが、二条城の始まりだそうです。

 

家康が二条城を築いてからは、家光の時代までは、将軍就任の祝いを二条城で行われていました。

豊臣秀頼と会見したのも、二条城。

 

大坂冬の陣・夏の陣では、二条城は家康の拠点にもなっていました。

江戸時代以外にも、二条城と呼ばれる建物はあったんですね。

室町時代も長く続いた時代ですよね。

江戸時代より長く続いてたけど、終わりをむかえへ戦国時代へと…。

 

そして、戦(いくさ)もなく平和な江戸時代も終わりへと向かって行きます。

幕末、明治維新へと…。

大政奉還の意味

大政奉還、歴史の授業でも習ったと思います。

大政奉還を簡単に説明すると、

朝廷から授かっていた征夷大将軍の位と、これまで幕府が行っていた政治をする権利を朝廷に返上することです。

 

15代将軍・徳川慶喜が、大政奉還を行った場所。

その場所が二条城です。

これにより、260年近く続いていた江戸時代・徳川幕府の終わりをつげました。

 

慶喜が政権を返上したことで、徳川幕府による260年の支配が終わります。

260年も、長きにわたって続いていた江戸時代も大政奉還で終わったんですね。

 

大政奉還について簡単に説明しましたけど、なぜ?

幕府が朝廷に政治をする権利を返すことになったのか?

大政奉還行うまでの歴史

 

慶喜が将軍となったころには、すでに幕府は崩壊寸前の状態でした。以前のような権威を維持するどころか、欧米諸国の圧力に押されて不平等条約を結ぶなど、諸藩の間では、

徳川幕府に政治を任せておいてはいけない。

そんな声が上がり始めました。

 

その中でも、薩摩藩と長州藩が、打倒徳川を掲げて行動をおこします。

 

公家・岩倉具視らを巻き込んで、「討幕の密勅」と呼ばれる極秘命令を受け、薩摩藩と長州藩は武力をもって倒幕をしようとしていました。

 

慶喜は、このままだと薩摩や長州などの連合軍に幕府は攻められ滅ぼされるとおもい、土佐藩からの建白もあって※建白とは、政府・上役などに自分の意見を公的に申し立てること

大政奉還を行いました。

 

弱体化していた、徳川幕府を守るための政権を朝廷に返上すれば薩摩・長州が幕府を攻める理由がなくなるわけですから、大政奉還は最後の手段でした。

 

それに、鎌倉時代からは数百年に渡り朝廷が政治を行っていなかったので、政治を運営するノウハウが朝廷にはなかったのです。

そのため、徳川家が今までどうり政治を行い生き延びていくという計算も慶喜にはありました。

 

慶喜の思惑通り、朝廷からは引き続き政務が委任され、将軍職も保持することが出来ました。

 

薩摩藩や長州藩は、面白く思わなかったのです。

 

徳川家が政治の実権を握っている限り、自分たちが目指す新しい政治ができません。そのため、倒幕を目指していた志士たちは朝廷に働きかけました。

そしてついに天皇が「王政復古の大号令」をはつれいします。

 

これにより、武士が政治を行う時代が終わり、天皇が政治を行う時代になりました。

 

幕府に、見方する人。新政府を作ろうとする人。

いろんな人々の思惑があったんですね。慶喜の思惑どうりに動いていたけど、薩摩や長州はそれを許さなかった。

薩摩や長州と言えば、昔は豊臣家に仕えていた武将の末裔が多いんですよね。もしかしたら先祖代々いつかは豊臣家の仇をうとうとそんな思いがあったのかもと個人的な感想ですが思ったりもします。

 

幕末を舞台にした大河ドラマもおおいですよね。最近では、西郷どん、少し前なら、花燃ゆ、八重の桜。

篤姫、龍馬伝、新撰組もありましたね。誰を主人公としてみるかで同じ出来事でも思いいれが変わって来ると思います。

 

まとめ

今回は、二条城についての歴史と大政奉還について紹介しましたが、いかがでしたか?

江戸時代の始まりと終わりに関わっている二条城。

 

家康も築城した時は、ここで自分が開いた江戸幕府が終わるとは思ってないなかったでしょう。

そう考えると歴史って奥が深いですね。大政奉還後、慶喜は戦争を望んではなっかたのですが、

鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争と時代が動いていきます。

 

その辺りの歴史はまたのきかいに紹介したいと思います。

では、今回はこの辺で。ありがとうございました。

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Posted by ゆずころ