豊臣秀吉の生涯を年表で簡単に紹介!性格が悪いエピソードや天下統一成功した理由を調査

2019年6月1日

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こんた

今回は、太閤さんで親しまれる豊臣秀吉の生涯について調査しました。

  • 豊臣秀吉について
  • 豊臣秀吉の生涯を年表で紹介
  • なぜ?天下統一出来たの?
  • 性格悪かったって本当?

この辺りを中心に調査してみました。

主君信長との出会い、妻北の政所ねねとの出会いなどはどのようなものだったんでしょう。

 

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豊臣秀吉について

豊臣秀吉
逸翁美術館

豊臣秀吉、戦国時代・安土桃山時代に活躍した武将です。世間一般ではやっぱりめっちゃ出世した人物。「戦国一の出世頭」ともいわれています。

秀頼が生まれてからは親バカなイメージがあるんですけど、実際はどんな人だったんでしょう。

生まれは尾張国今の愛知県で、農民の子として生まれました。

農民から天下統一する武将にまで成り上がるなんて、人生って何があるかわかりませんね。

では、簡単に豊臣秀吉について説明していきたいと思います。

初めは木下藤吉郎と名乗っていました。

羽柴秀吉に改め後に、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓としました。

 

  • あだ名は猿
  • 馬印は、金瓢箪。
  • 兜は、一の谷馬蘭兜。
  • 城主経験のある城は長浜城、大阪城
  • 織田信長・徳川家康と並び三英傑と言われています。

 

尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれました。

初めは今川家に仕えていましたが織田信長に仕官しどんどん頭角を現していきます。始めは、草履番や台所奉行などを進んで引受け、大きな成果をあげ出世していきます。

そして運命な出会い、ねねと当時としては珍しい恋愛結婚。結婚後さらに出世していきます。ここまで来たら出世街道一直線ですね。

 

金ヶ崎の戦いでは大手柄をあげる快挙を成し遂げました。殿(しんがり)を務めていた秀吉は、織田信長を見事守り通したのです!

※殿(しんがり)とは、 退却する軍列の最後尾にあって、敵の追撃を防ぐこと。また、その部隊。

姉川の戦いで浅井・朝倉家が滅亡した後、1573年初の城持ち大名として長浜城(初の自分の城)の築城を行う。その当時は、中国地方の攻略を担当し、備中高松城の戦いでは有名な水攻めを行い功績をあげ続けていましたが、そのさな信長は本能寺の変で明智光秀の謀反により命を落としました。

秀吉は、信長の死の知らせを聞き「中国大返し」により京にまい戻り、山崎の戦いで光秀を破り、織田信長の仇を討つことに成功しました。

清須会議では、秀吉は信長の孫で当時まだ2歳の三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝利しました。

翌年には、賤ヶ岳の戦いにおいて、加藤清正などの七本鎗の活躍もあり、柴田勝家を破り、豊臣秀吉は名実ともに織田家のトップに君臨していきまた。

小牧・長久手の戦いで徳川家康と織田信雄軍と対決をし事実上の敗北をきしますが、和睦の結果、徳川家康を自分の家臣として従わせることになりました。

その後も大阪城の築城や、刀狩り・太閤検地などの全国当地を行っていき、関白・太政大臣に就任します。そして天下統一!

伏見城にて病死。61才で生涯を終えました。

辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

意味 露のようにこの世に生まれ落ち、そして自分は梅雨のようにはかなく消えてゆく。

大阪で過ごした栄華を誇ったことも夢のなかで夢をみているんだな。

豊臣秀吉の生涯を年表で紹介

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こうさん

年表で秀吉の生涯を見ていきたいと思います。

 

1537年 尾張今の愛知県で百姓の子として生まれます。父・弥右衛門 母・なか 幼名は「日吉丸」です。

1543年 7歳で実父・弥右衛門が死別。母親が竹阿弥(ちくあみ)と再婚しましたが、養父とうまくいっていなく、日常的な虐待を受けその挙句、8歳で光明寺に預けらました。

しかし、寺では悪さばかりするので、10歳で寺から追い出され家に戻ったが義父と折り合いがあわず家を出ます。職を転々と変えながら放浪生活のはじまりです。

1551年 今川家の家臣、頭陀寺城主(静岡県浜松市)・松下之綱と出会い仕えることに。この頃「木下藤吉郎」と改名しています。

 

偶然の出会いから松下家に仕えるようになり、めっちゃ仕事を頑張ります草履取りから始まり之綱に認められ出世し納戸の出納を任されるようになりました。が、順調に出世していくのをよく思わない者達の嫉妬からあらぬ疑いをかけられました之綱は藤吉郎の仕業ではないと判断しますが、之綱は苦渋の決断で藤吉郎を追放、追い出す事に…。藤吉郎は泣きながら「お金を受けとって、泥棒の汚名を引き受けるのは一生の恥でございます。」今まで一生懸命に仕えてきたこと、そして「卑怯な連中と一緒になって自分を追い出すとは…あまりにも残念です」とそんな人に一生懸命仕えてきた自分が悲しいと訴え退職金も受け取らず松下家を後にしました。

しかし、この時の恩は忘れてなっかたのです。後に出世した秀吉が松下家を大きく取り立てて、大名にしています。

 

1554年 中村に戻った藤吉郎は幼馴染で織田家の小物頭をしていた、一若の推薦により織田信長に仕えはじめます。草履番からのスタートですが、信長に忠義を尽くし仕えていったのです。

 

1560年 桶狭間の戦いに参戦。桶狭間の戦いにより信長は義元を見事討ち取ります、藤吉郎はその発想力と行動力から信長に重用されていくのです。

1561年 浅野長勝の娘ねねと結婚。当時としては珍しかった恋愛結婚だと言われています。(秀吉は25歳、ねね13歳)

※秀吉は浮気症でしたが、ねねに関しては常に大事に扱い、またねねも豊臣家にとっては無くてはならない存在でした。また、ねねは加藤清正や福島正則といった、後に天下統一するため活躍した彼らを子供のころから育てた事でも有名です

 

1562年 足軽百人組の頭となる

1566年 織田信長による美濃国攻めに参加。「一夜城」として有名な逸話が残る墨俣城を築いて、てがらおあげます。これが後の大出世の足がかりになります

1570年 織田・徳川連合軍による越前遠征。金ヶ崎の戦い(織田信長と朝倉義景との戦のひとつ)で秀吉の尽力により撤退の被害を最小限に抑えたといわれています。戦国史上、有名な撤退戦のひとつです。金ヶ崎城攻略自体は成功していた。

1573年 越前朝倉氏討伐 近江国の浅井長政攻めに参加。浅井氏旧領を与えられ城を持てる身分に出世この頃からします。羽柴秀吉と改める。初の城持ち大名として長浜城(初の自分の城)の築城を行う。

1574年 近江長浜城の城主となる。

1575年 長篠の戦い 3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。織田側の『鉄砲隊』が活躍したことで有名です。

1577年 信長の命令を受けて中国地方を攻める総司令官に。

1578年 三木合戦 織田軍と別所軍の合戦で、別所氏は播磨三木城に篭城。羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、秀吉が行った「三木の干殺し」とよばれる兵糧攻めで有名な戦です。1580年城主一族が切腹し、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了して三木城攻略をはたす。

1582年 備中高松城の戦い 織田軍と毛利軍との戦いで秀吉が清水宗治の守備する備中国高松城を攻略する。

本能寺の変 信長が家臣の明智光秀の謀反によりなくなる、秀吉はその知らせを聞き中国大返しにより京にまい戻り、山崎の戦いで光秀を破る。
清洲会議により、信長の孫三法師が跡継ぎに。

1583年 賤ヶ岳の戦いで、同じく信長に使えていた柴田勝家を破ります。秀吉の勝利により織田信長の継承者となることを決定づけた。 大阪城の築城。(2年後に完成)

1585年 関白に任命されます。四国の長宗我部元親を破り、四国地方を平定する。

1586年 太政大臣に就任。名前を「豊臣秀吉」に。徳川家康が家臣になる。

1587年 九州の島津義久を破り、九州地方を平定。

1588年 刀狩令を出します。茶々を側室に迎える。

1590年 関東の北条氏政・北条氏直父子を降伏させ関東地方を平定します。同時に、東北地方の大名を家来にすることに成功。
天下統一を成功させました。

1591年 秀次に関白職を譲り、太閤とよばれるようになる。

1592年 朝鮮出兵。

1593年 淀殿が秀頼を生む。

1598年 伏見城で病気により亡くなる。癌だったと言われています。

簡単に紹介しましたが、身分の低い農民、(諸説ありますが)から天下統一を成し遂げるまでになるなんて、その出世術はすごいですよね。運なのか、実力なのかそのあたりを次は調査してみました。

天下統一出来たの理由は?

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こうさん

天下統一まで成し遂げた秀吉。いまだに太閤さんと親しまれるけど、身分の低かったのにが天下統一できたの?

  1. まず第一に怖いもの知らず。身分が低い出なので失うものは何もない。上にのし上がっていくだけですからね。子供のころに家を出され一人で生きていくしかない時もありました。恵まれた環境ではなっかたことで反骨精神があったのかもしれませんし、一説では父親が足軽だったといわれているので武士としての志があったのかもしれません
  2. 主君選び 家を出た後むかったのが今川義元が治める領地でした。今川家の一武将、松下嘉平衛が流れ者である秀吉を家臣にします。雑用係として働き始めた秀吉、その働きぶりに出世していきますが、妬みや嫉妬であらぬ疑いをかけられ松下家をさることに。このまま松下家に仕えていたらきっと天下統一してなかったでしょう。その後、当時はまだそれほど強くなかった織田信長に仕えることになります。草履番からのスタートからですが、有名な草履を温めるという誰も思いもよらない行動にでたりと信長様がどうしたら喜んでくれるか常に考え、その頑張りが認められ足軽に出世。
  3. 人脈や人たらしと言われるぐらい人をほめまくっていた。一夜城を作ったとき資材の調達や運搬、加工、組み立て、人員の移動など、すべて地元の盗賊集団にまかせます。築城中も彼らを励ましよく面倒もみ、ケガをすれば治療をしてあげたりと気遣うことで皆の士気が上がりました。他には家臣にも褒めて、褒めるのも低姿勢から褒められるので過酷な仕事でも皆嫌がらず、逆に尊敬されていました。だから黒田官兵衛や竹中半兵衛など当時において有能と知られた軍師たちを家来にできたのしょうね。
  4. 戦い方 根回し 兵糧攻めなど自分の被害は最小限におさえ、先のひとたらしを駆使して敵の中から裏切者をださせたりと被害を最小限に抑えた戦い方や根回しによって武力を使わず、無傷で城や人を手にいれていきました。時間はかかりますが労を惜しまなっかたんです。そのため自分の軍を強化することができたのでしょう。

最終的な天下統一に近づくきっかけになったのが、清須会議です。信長の孫を擁して自分に有利になるように持っていく、そんな才能があったんですね。

のし上がっていく気持ちや、褒めて人を引き付けて離さないきっと人柄が良かったんですね。下級層からのし上がっていくなんて並大抵の努力じゃ無理やと思うですけど、人を見る目や生い立ち元々武将じゃないので、何のしがらみもなく自分の思うがままにできたのかもしれないですね。

清須会議について知りたい方は映画 清須会議をご覧ください

性格が悪かったのは本当?エピソードを紹介

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おつさん

人をほめたり尊敬されていたのに、太閤さん性格悪かったんはほんまなんかな?

性格が悪くなったのか、もとからそうだったのか特に主君である信長が亡くなった後の方が性格悪いエピソードがおおいようです。

  • 天下統一をしてから豊臣秀吉の性格は悪くなった。
  • 織田信長の一族に対して信長の死後には、手のひらを返したように、切腹や追放と冷遇。
  • 若い頃は、人殺しが嫌いでさけてきたのに、晩年は甥の豊臣秀次に切腹を命じさらに秀次の家族ら39人を処刑しています。生まれたばかりの子どもまでも。
  • 晩年の豊臣秀吉は、周りの反対を押し切り行動を起こします。

 

理由は憶測になりますが、弟の死です。秀吉と家臣の間をとりもっていた弟が亡くなり家臣とのバランスが崩れた。弟が亡くなった頃、子供もなくしています。そのため精神的におかしくなった説や、老いからくる認知症説。などありますが天下をとるまではそんなことがなかったので急にかわってしまったといってもいいのではないでしょうか。

甥を切腹させたのは、息子・秀頼を跡継ぎにするためと言われていたりしますが、このことが最終的には豊臣家が滅んでいくことになったのではと思います。

まとめ

今回は、豊臣秀吉について調べてみました。

何度も書いた通り出世、天下をとるまでになるとは凄いですよね。大阪うまれの自分からしたら大阪の礎を築いた人ですね。

太閤さんがいたから今の大阪があるっていうても過言ではないでしょう。大阪城の発掘調査で豊臣時代のお堀など土の下から出てきた時大阪の人がショックを受けるからと言って暫く公表されなかったらしいので、それまでは今あるお堀や石垣などずっと太閤さんが造ったものと信じてたんですね。それぐらい大阪の人にとっては素晴らしい武将。

ドラマの中のイメージは何か憎めないキャラなんですけど、秀吉に関しては後世に造られた話など多いので草履の話も実際はどうなのかとも言われているようですね。

何がきっかけで出世していったかは、別にしても天下統一したことはまちがいないですからね。

では、このへんで。ありがとうございました。

 

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