徳川家康の生涯を簡単に紹介!趣味や家系図や子孫を調査

戦国時代の人物で欠かせないといったら織田信長、豊臣秀吉そして、徳川家康。今回は家康について紹介します。
- 徳川家康について、どんな人?
- 生涯を年表で紹介
- 趣味
- 子孫・家系図はどうなってるの?
250年以上続く時代を築いた家康の人生を調査しました。
織田信長の生涯を年表で簡単に紹介!性格(人柄)や家系図・面白エピソードも調査の記事
徳川家康について

徳川家康、江戸時代に入ってからは影武者説もありますがどのような人物だったのでしょうか?
幼名は竹千代。6歳から17歳までの間、織田家や今川家の人質として幼少から青年時代をすごします。肩身の狭い思いをして育ってきました。
そして、今川家の人質時代に結婚していますが、相手は年上でしかも今川義元の姪・瀬名姫(築山殿)さらに、肩身の狭い思いをしていたに違いありません。 多感な時代を人質として育ったからこそ、我慢強い性格になったんでしょう。
他に性格として伝えられているのが、
- 倹約家いわゆるケチ
- 質素な生活、健康志向が強かったので当時としては長生きな75歳までいきていた。
- 短気、戦になるとよく怒っていた。
家臣の裏切りで祖父と父を殺されていたりと、子供時代は苦労してきたんですね。
信長や秀吉の家臣を務めたりと派手なイメージのない家康の人生を次は年表で紹介します。
生涯を年表で簡単に紹介

どんな人生を送ったのかな?
幼少期~人質生活時代
1542年 三河国を治めていた松平広忠の長男として生まれる。幼名は竹千代
1547年 尾張国の織田家の人質になる。本当は今川義元の人質になる予定身内の裏切りにより、尾張国を治めていた織田家に捕らわれる。松平家は今川家の傘下にはいる。
1549年 織田信広との人質交換により、駿河国の今川義元の人質に 尾張で2年、駿府で12年ほど人質生活を送る
1549年 父、松平広忠が家臣に暗殺される。駿府(人質中)にいながら家督を相続
1555年 元服する。義元の一字をもらい松平元信という名前に。その後に松平元康と改名する。
1557年 今川義元の姪、瀬名姫(築山御前)と結婚
1558年 初陣(寺部攻め)義元の命にって、松平重吉らとともに織田氏に寝返った寺部城主・鈴木日向守を攻める
1559年 駿府にて築山殿との間に信康誕生
1560年 亀姫誕生 桶狭間の戦い。今川勢の先鋒として出陣し、大高城への兵糧入れを成功させる。しかし今川義元が桶狭間の戦いで織田信長の奇襲にあい討死。今川義元が亡くなったことをきっかけに、今川家から独立する事に成功(人質生活終了)
武田家同盟・織田家同盟・豊臣家家臣時代
1561年 岡崎城に帰り、岡崎城主となる。その後も、織田信長とは対立したまま。
1562年 伯父、水野信元が間に入り織田信長と和解、清洲同盟が成立し、駿河国の今川家とは敵対関係になる。
1563年 家康に改名する。三河で一向一揆が起こる。
1566年 一向一揆を平定。牛久保城を攻略し、三河一国を統一する。名前を「徳川家康」と改める。
1568年 甲斐国の武田信玄と同盟しを組み、かつて仕えた今川家を攻め遠江国の大部分を獲得する。
1569年 掛川城の戦。掛川城に入っていた今川氏真を攻め、遠江掛川城を領有する。武田信玄から一方的に同盟を破棄される。武田家に遠江国を攻められたことから敵対関係になる。
1570年 武田家への防衛強化のため、本拠地を遠江国の引馬城に移す。名前を浜松とあらためる。
姉川合戦。織田信長の援軍として合戦に参加する。織田信長の危機を救うなどの功績をあげる。朝倉・浅井連合勢を破る。三越同盟 上杉謙信と同盟を結ぶ。
1572年 三方ヶ原の戦い 三方ヶ原で武田信玄と戦うも惨敗。
1573年 武田信玄が亡くなったため、危機を回避する。
1575年 長篠合戦 武田信玄の子、武田勝頼に長篠城を攻められるが、織田・徳川連合勢で武田勝頼勢を破る。
遠江国の諏訪原城を攻略する。遠江国の二俣城を攻略する。
1576年 遠江国の犬居城を攻略する。
織田信長の命令で、妻・瀬名姫と嫡男・松平信康を武田家と内通しているという事で処刑を命令される。
1581年 武田勝頼に奪われていた、高天神城を攻略し遠江全土を平定する。
1582年 織田信長の甲斐侵攻に参加する。武田勝頼自害し、武田家が滅亡する。
信長より駿河一国を与えられる。本能寺の変が起こり、同盟を組んでいた織田信長が亡くなる。
1584年 小牧・長久手の戦い。織田信雄の要請を受け、織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉と戦う。戦に勝利する。
1586年 秀吉の母・大政所を人質に受けて上洛し秀吉の家臣になります。豊臣秀吉の妹、旭姫と再婚する。
1587年 朝廷から従二位権大納言の職に任命される
1590年 北条小田原攻め 北条氏政・氏直父子が、豊臣秀吉に降伏し北条家が滅亡する。秀吉の命令で本拠地を江戸に移し、江戸城城主となる。
1598年 豊臣政権の元五大老筆頭として実権を握る。秀吉が亡くなり、その子供である秀頼の後見を任されます。
1600年 関ヶ原の戦い 徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が戦う、東軍勝利で事実上の天下人となります。
江戸幕府
1603年 征夷大将軍に任命されて、江戸幕府を開く。
1605年 三男・秀忠に征夷大将軍職を譲る、大御所となる。
1607年 駿河国の駿府城を居城する。
1611年 二条城で豊臣秀頼と対面する。
1614年 大坂冬の陣 徳川軍が大阪城を攻めるが、この戦は和平を結び終結する。
1615年 大坂夏の陣 家康の完全なる勝利。秀頼と淀殿は自害、豊臣家は滅亡した。
1616年 駿府城で死去する
辞世の句「先に行く あとに残るも同じこと 連れて行けぬをわかれぞと思う」
意味 先に死にゆく私は旅に出るが、今は生き残る貴方もいずれは同じように死ぬ事は免れない、だからといって、貴方を死の道連れとはしない。ここで別れだ。
人質生活を経て、苦労をした人生を送ったんですね。天下統一するまで時間はかかった気はしますが、有力な人物が病死したりとある意味運がよかったのかな。と思ったりします。長生きしてよかったですね。
趣味
多趣味と言われる家康どんな趣味か調査してみました。
- 鷹狩 生涯で千回以上もの鷹狩りをしている。
- 薬作り 自分で処方も出来る位の知識があった。
- 囲碁本 因坊算砂を京都から駿府に招いている
- 猿楽 現在の名称は能 若いころから世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学ぶ
- 香道 遺品にも高品質の香木が多数遺されている
特に鷹狩りと薬作りは熱心だった。長生きしたのも薬に詳しかったから自分で調合していたぐらいですからめっちゃ熱心に勉強してたんですね。
子孫・家系図を調査

子孫は、どんな人がいたのかな?
息子
長男 | 松平信康 | 信長の娘と結婚。家康の命により切腹 | 七男 | 松平松千代 | 生後間もなく長沢松平家を継ぐが、わずか6歳で亡くなった |
二男 | 結城秀康 | 秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)結城家の養子 | 八男 | 平岩仙千代 | 家康の配慮で、平岩親吉の養子になる。享年6歳 |
三男 | 徳川秀忠 | 江戸幕府の第2代征夷大将軍 | 九男 | 徳川義直 | 尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である |
四男 | 松平忠吉 | 徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿。享年28歳(病死) | 十男 | 徳川頼宣 | 紀州徳川家の祖。紀伊国和歌山藩の藩主 |
五男 | 武田信吉 | 病弱で、わずか21歳で死去した | 十一男 | 徳川頼房 | 常陸水戸藩の初代藩主。水戸徳川家の祖 |
六男 | 松平忠輝 | 父親から生涯を通じて嫌われた |
娘
長女 | 亀姫 | 奥平信昌の正室 | 四女 | 松姫 | 不詳 |
二女 | 督姫 | 北条氏直正室のちに池田輝政正室 | 五女 | 市姫 | 政宗の嫡男・虎菊丸と婚約3歳で亡くなっている |
三女 | 振姫 | 蒲生秀行正室 浅野長晟正室 |
実子だけでも16人いてますが、養子だけでも20人以上いてます。
討幕するまで15代まで続いてました。現在も子孫の方もそれぞれ活躍されています。
- 徳川本家の現在は、18代・徳川恒孝さん 19代当主は恒孝さんの長男・家広さん
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尾張徳川家の現在は、22代・徳川義崇さん
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水戸徳川家の現在は、15代・徳川斉正さん 16代当主は斉正さんの長男・斉礼さん
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紀州徳川家の現在は、19代・徳川宜子さん
まとめ
今回は、徳川家康を紹介しました。
簡単にまとめてみたのですが、幼少期から長い期間人質生活を送って我慢強い性格になったのかと思った反面、戦では短気だったり意外な一面をしりました。
長生きできたから天下をとれたのかと、この時代に70歳以上に生きることは珍しい事だと思います。現に家康の子供も幼いうちに病気で亡くなっていますからね。
江戸幕府も250年以上も続いていきます。また江戸時代の出来事では大奥とか元禄赤穂事件など…。興味深い事が多いですね。
その辺はまたのきかいに(*^▽^*)
今回は、このへんで。ありがとうございました。