三十三間堂の歴史を年表で簡単に紹介!名前の由来や仏像の数は?

2019年12月19日

●●●
こんた

今回は、三十三間堂の歴史を紹介します。

 

三十三間堂
ウィキペディアより

修学旅行や社会科見学で学生時代に訪れたことがある人も多いと思います。

  • 三十三間堂について紹介
  • 歴史を年表で簡単に紹介します。
  • 名前の由来は?正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)
  • 仏像の数は、1000体以上!

豆知識などもあわせて紹介します。

三十三間堂の見どころ国宝・千手観音像を紹介!観光所要時間の目安を調査。

清水寺の歴史を簡単にまとめてみました。(豆知識・観光スポットをすこし紹介)の記事

伏見稲荷大社の歴史を年表付きで簡単に解説!千本鳥居の見どころと由来や狐との関係はの記事

三十三間堂とは

建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)

京都府京都市東山区三十三間堂廻町にあります。

元々は、後白河上皇が皇室の別邸として建てた法住寺殿(ほうじゅうじどの)がありました。そしてその敷地の一角に建たのが蓮華王院本堂、いまの三十三間堂です。三十三間堂の東隣には後白河上皇ねむっている法住寺陵あります。

平安後期に、後白河法皇の命令で、平清盛が私財を投じて建立しました。

創建された時には五重塔なども立っていて本格的な寺院だったのですが、火事で焼失しています。また、建てられた当時は外装は朱色で塗られていて、内装は極彩色(ごさいしき)で派手な色合いでした。

三十三間堂といえば、通し矢も有名ですね。豊臣秀吉の時代にはすでに通し矢が行われていたようです。

※通し矢 弓術の一種目で、三十三間堂の本堂西側の軒下を南から北に矢を射通す競技です。軒下の長さは約121mもあります。

 

創建当時の鮮やかなさは、時代と共に色褪せてみられないのが残念です。でも、時をこえて残っているものもあるし代々受け継がれて大事に後世に繋いできた人たちに感謝しないといけないなと、歴史のあるものに触れるたびにおもいます。

当時の色鮮やかな姿もきっと素晴らしかったんでしょうが、現在の色あせた建物も風情があって素晴らしいですね。

歴史を年表で紹介

●●●
こうさん

次は、年表で簡単に紹介していきますね。

 

1155年8月23日 – 1158年9月5日 平安時代末期 後白河天皇は第77代天皇として即位しましたが、たった3年で二条天皇に位を譲ります。それ以後、上皇として離宮(皇室の別宮)に移り「院政政治」を行う

 

※院政政治 天皇が皇位を後継者にゆずって上皇となり、天皇に代わり直接政務を行う政治の事。平安時代末期から、鎌倉時代の武家政治が始まるまで行われていた政治方針です。

 

1165年 後白河上皇が平清盛に命令し、清盛は私財を投じて法住寺殿の敷地内に蓮華王院仏堂(三十三間堂)を建立

1183年 木曽義仲が後白河上皇を襲撃する。その時法住寺殿は焼失するも蓮華王院仏堂(三十三間堂)は焼失をまのがれる

1185年 地震により蓮華王院仏堂(三十三間堂)倒壊。

1191年 源頼朝によって蓮華王院仏堂(三十三間堂)再建される。

1192年 後白河法皇が亡くなり、故人の指示により三十三間堂で葬儀が営まれる。

1249年 建長の大火によって三十三間堂をはじめ蓮華王院諸堂がほぼ焼失する。五重塔、多くの仏像、伽藍も焼失する。

1254年 湛慶、中尊千手観音像を完成させる

1266年 後嵯峨上皇により三十三間堂が本堂のみ再建される。これが現在の三十三間堂です。

1433年 室町幕府第6代将軍・足利義教(よしのり)が修復。

1437年 足利義教が参詣したと伝わっています。

1586年 関白・豊臣秀吉が方広寺(東山大仏)を創建。その際に方広寺の境内に三十三間堂も取り込まれ、土塀や門などが整備されました。三十三間堂や千手観音像の修復をおこなう。秀頼の代まで続きました

1598年 秀吉の死後、方広寺が妙法院に管理され、三十三間堂も妙法院に属することになりました。

1600年 豊臣秀頼の命により、千手観音の修復が行われる。

 

方広寺 豊臣家滅亡のきっかけとなる方広寺鐘銘事件がおきた場所です

 

火事で燃えて再建されたとはいえ700年以上も前に建てられたものが現在も見れるなんて凄いですね。応仁の乱(1467─1477年)では多くの建物が破壊されたたにもかかわらず三十三間堂は奇跡的に残っているなんて不思議ですね。

三十三間堂を調べていて豊臣家が滅びる方広寺鐘銘事件に結び付くとは思いもしませんでした。まだまだ歴史の勉強をしないといけないと思いました。それにいろいろ歴史上でおこったことを関連付けていくと壮大なドラマを見てるみたいで楽しいです。

名前の由来は?

本尊は千手観音です。、ということから、蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)名づけられました。

三十三間堂の由来は、本堂が間面記法で「三十三間四面」になることから由来しています。

※間面記法 奈良時代から南北朝時代に用いられた建築の平面、規模、形式を表現する方法

※柱間(はしらま)とは、伝統的な日本建築において、仏堂、社殿などの柱と柱との間(あいだ)のこと。たんに間(ま)ともいう。

簡単に説明すると内陣の柱間(はしらま)が33あることから三十三間堂と呼ばれるようになりました。

 

建築方法まで詳しくないので柱の数が、名前の由来だったんですね。

そして、33という数字の意味には観音菩薩さまが、生命のあるすべてのものを救いに来る時のお姿が33種類あることから、仏教の教えに従って建築されたんですね。

 

数字にも意味があり、千手観音の別称が「蓮華王」という別名があることも初めてしりました。蓮華王院本堂と言われても「それ、どこ?」ってなるぐらい自分の中では三十三間堂という名前の方がしっくりします。

仏像の数は、1000体以上!

三十三間堂に安置されているのは、

  • 中尊である丈六の「千手観音菩薩坐像」(国宝)
  • 守護神の「風神・雷神像」(国宝)
  • 眷属(けんぞく=神の使者)の「二十八部衆像」(国宝)
  • 木造千手観音立像(りゅうぞう)」1001体(国宝)

※二十八部衆像 千手観音の眷属。 東西南北と上下に各四部、北東・東南・北西・西南に各一部ずつ配置。合計で二十八部衆

※木造千手観音立像1001体の造られた時期は、平安時代が124体 鎌倉時代が876体 体室町時代が1体

 

その数は、1032体あります。木造千手観音立像のうち5体は東京、京都、奈良の博物館に寄託されています。2018年に木造千手観音立像が国宝指定される記念に法要が行われた際に、26年ぶりに5体が戻り、1001体が全てそろいました。

東に面して南北120メートルに伸びている空間に仏像がひしめいている光景には、後白河法皇が極楽往生を望む執念がつまっているのです。後白河上皇がひとりで祈りを捧げるために建立された空間です。

 

一度に多くの国宝を拝めるなんて、凄い場所ですね。

訪れたことがある方はわかると思いますが、あの広い空間をただ一人後白河上皇が祈りを捧げるために造られたなんて、時の権力者の力は凄いという事しか言いようがないですね。まだ訪れた事のない方は、訪れたさいに圧倒される仏像の数々に感動しながらこの空間が一人のために造られたんやと思うとまた、違う感じ方ができるかもしれないですね。

まとめ

今回は、三十三間堂の歴史を紹介しましたがいかがでしたか?

千手観音も平安時代に作られたものもあり歴史を感じますね。ほとんどが鎌倉時代に作られたものですが、それでも何百年も前のもの修復や補修も繰り返されてきてるとはいえ、ながい年月をへて見られるの幸せです。

何度か訪れた事がありますが、千手観音の数に圧倒されるのと千体近く鎮座していて他では絶対見れない光景は忘れられないですね。

観光地でもあるので他に沢山の人が訪れていますが、後白河上皇のように一人であの空間で祈りを捧げる事を想像するとなんか寂しくも感じます。ですが当時は建物も色あざやかやかで、仏像もきらびやかに輝いていた姿をその中で一人祈りを捧げる後白河上皇の極楽往生を望む想いは凄かったでしょうね。

今回は、この辺でありがとうございました。

古寺巡礼京都(18)新版 妙法院・三十三間堂 [ 梅原猛 ]

感想(0件)

歴史

Posted by ゆずころ