福智山藩城主・稲葉紀通にせまる!寒ブリ事件で自害。

今回は、福智山藩城主・稲葉紀通(のりみち)について紹介します。
稲葉紀通って、誰?という人がほとんどかもしれないですね。そうゆう自分も知らなっかです。福知山城の歴史について調べてたら登場してきた人です。
あまりに、自分の中で衝撃だったので紹介します。
- 福智山藩城主・稲葉紀通ってどんな人
- 寒ブリ事件って? 寒ブリって美味しいですよね。
- 結末は…。自害
なぜ?自害する結末に至ったのか調査しました。
明智光秀が築城福知山城の歴史を紹介!石垣に使われているのは…。の記事
福智山藩城主・稲葉紀通ってどんな人
1603年 伊勢国田丸藩初代藩主・稲葉道通の次男として生まれる。
1607年 父親が亡くなったためわずか5歳で家督を継ぎ田丸藩主になる。
1614年 大坂冬の陣で初陣。
1616年 摂津中島4万5700石へ国替される。
1624年 には丹波福知山へ国替される。
1648年 自害する。
大坂冬の陣が初陣ってことは戦国の世もほぼ終わりの頃に生まれ育ったんですね、戦もない時代でなぜ自害しないといけなかったのか?
伊勢で育った紀通にとっては、海の幸が豊富に手に入るのが当たり前の環境だったはずです。新鮮な魚介類がいつでも食べられる生活が国替えで内陸地にある福智山に来たことで、食文化が変わってしまうのもあたり前です。今の時代と違って冷蔵施設があるわけでもなく運搬するにしても道は舗装されてるわけでもないし、新鮮な海の幸を食べることができなくなった。
これが、悲劇のはじまりです。
寒ブリ事件・序章
もともと紀通は、藩の中でも評判が良くなく、福知山の土地は水害に弱く大雨が降ると川が氾濫します。そのため作物の収穫が悪く紀通は、減収分を補うために領民に重税を課して反対する領民には何かと罪を押し付けては処刑するという暴政を繰り返えしていました。
家臣に対しても、不正の噂があるだけで捕え、取り調べもせずに虐殺しています。殺害された家臣2名の家族がこれを恨みに思い、謀叛を訴え出たことも。
そんな冬のある日、家臣と二人で雪見酒を楽しんでいました。だんだん酔いがまわってきた二人は
「昔、食べた寒ブリが美味しかったな。」「もう一度食べたいですね。」そんな会話をしながら、寒ブリ大好きな紀通は家臣たちに
寒ブリを振舞ってやりたいでも、福知山には海がない。
どうしたものかな~?そうだ‼
思案の末、「隣国・丹後宮津藩の京極高広に頼もう」という事になりました。丹後は、日本海に面していて屈指の漁場なのです。
富山に、負けず劣らずのおいしい寒ブリが手に入るにちがい無い。というわけで
紀通は、京極高広に『家臣に寒ブリを食べさせて上げたいので、100匹送って欲しい』と手紙を送りました。
家臣に食べさせたいと優しい所もあったんですね。
一方手紙を受け取った京極高広は…。
誤解が生んだ?寒ブリ事件
稲葉紀通が、他の藩からも良く思われているはずもなく、また手紙を受け取った京極高広も、後に宮津藩改易の原因を作るなど、問題の多い男でした。そんな問題の多い男ですから、言われたことを素直に受けとるはずがありませんでした。
『家臣に寒ブリを食べさせて上げたいなんて、嘘に違いない。幕府への賄賂として献上しようとしているのでは?』と、疑います。
何せ世の中は戦もなく、もはや江戸幕府の力はゆるぎないものになっていたからです。それに、春日の局を叔母に持ち、幕府に顔が利く紀通がきっと賄賂を贈って幕府の役人に気に入られようとしているに違いないと京極高広は疑いつつも寒ブリを送ることにしました。
疑いながらも送るんですね。いい奴やんと思ったのですが…。
殿ご乱心!寒ブリ事件
やっと念願の寒ブリが届きました。これで美味しい寒ブリが食べれるぞっと荷箱を開けて紀通は大激怒!
「なんだこれは、頭が全部切られてるではないか‼」武士にとって、首を落とされるのは不名誉なこと。この上ない侮辱をうけた。そう受け取った紀通は「あいつは、喧嘩をうっているのか!」と、あんなに食べたかった寒ブリを庭に全部放り投げ踏みにじり一口も食べることはありませんでした。
それどころか、福知山城下の街道を丹後の者が通りかかったら際問答無用で殺すように、と命じ鉄砲撃ち、首をはねてしまうのでした。
丹後は京都の北部にありそのため都に出るには、福知山を通らないわけには行きません。京の都の人々は丹後半島で獲れるおいしい魚を待っているのです。しかし、宮津藩の武士だけではなく、町民から飛脚までも、時には紀通自らが火縄銃を乱射し、しかもはねた首を国境から京極の領地へ投げ込むという。
高弘はこの報復に驚きすぐに、幕府に訴えます。
事実を知った幕府は、紀通のひどい行状と暴政は常々聞いていたのでこの一連を、謀反と判断します。
そして、とうとう幕府からの命令が下るのです。
寒ブリ事件・結末
紀通が領民に重い税をかけたばかりという事もあり、領民からも城主への不満がたまっていました。そのため
幕府は、「稲葉淡路守紀通・追討命令」を出し、お取り潰しが決定します。そして、周辺諸藩に対し紀通討伐を命令をだしました。
近隣諸国の軍勢に取り囲まれていた紀通は、先祖伝来・家宝の甲冑に身を包み、天守閣にて狂ったように火縄銃を乱射!
最後の一発を自分に向けて発射し自害したそうです。
生まれたばかりの嫡男もいたのですが、4年後病気で亡くなったため家も断絶しました。
何とも言えない最期ですね。
まとめ
食べ物の恨みは恐ろしいというか、寒ブリで何人の人が殺されたのか…。
稲葉紀通の普段の行いが良くなかったのも理由でしょうが、京極高広も素直に受け取っていれば自分の所の領民も犠牲にならなっかたのに。なぜ、寒ブリの頭を落としたか理由を手紙にでも書いていればよかったのにと思うのは浅はかな考えなのかもしれませんね。
書いてたらその理由に対して怒りそうですから。
いつの時代も暴君と呼ばれる人はいるんですね。
今回は、このへんで。ありがとうございました(*^▽^*)