豊臣秀吉から加藤清正へ送った!「朝鮮出兵の命令書」が発見される。

2019年12月19日

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こんた

最古級検地帳がの次は「朝鮮出兵の命令書」が発見される。

  • 朝鮮出兵とは?
  • 命令上の書かれている内容とは?

発見が相次いでいますね。どんな内容が書かれていたのか気になりますね。

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朝鮮出兵

豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮侵攻。→文禄の役 →慶長の役

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年(1592年)に始まり翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役

慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて(1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役。

なぜ、秀吉は朝鮮出兵したのか?諸説あります。

  • 鎌倉時代の元寇に対する元寇の復讐説
  • 配下の家臣に領地を分けるための領土拡張説
  • 弟の死と息子鶴松の死の悲しみを晴らすための鶴松死亡説 うっぷん説

などなど、いろんな説があるのですが本当の説はまだわかっていないんですね。

いろんな説がありますが、この時朝鮮まで行かなっ方徳川家康が後に天下をとることになるのは、他の武将が朝鮮出兵のさいの負担が大きかった事により力が落ちていたのもあるみたいですね。

加藤清正とはどんな人物?

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。通称は虎之助(とらのすけ)。

秀吉の小姓として使えていた。賤ヶ岳の戦いの戦いでは敵将を破り賤ヶ岳七本槍のひとりとして活躍し3000石の領地をもらう。

常に秀吉の主な戦いには必ず従軍しており、秀吉を信頼しついていく気持ちがうかがえます。

熊本城も建てたのも秀吉が将来、唐を討つらしいと、少しでも大陸に近いところに建てたと言われています。

しかし、秀吉亡き後、石田三成と不仲のため徳川家に着きますが、豊臣家と徳川家の間に挟ま苦悩していました。すこしでも豊臣家の家格を高いままにしてもらうために、家康と秀頼の間に立って会見を促したりしていました。

また、藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わったています。

三成も秀吉のために思いが強いひとだった、それと同じく清正も秀吉のために豊臣家のために戦い続けてきたんでしょう。仲の悪さから不本意でも徳川家に着いた清正も豊臣家の事はやはり見捨てられなかったんですね。

二人が仲が良ければ関ケ原の戦いもどうなっていたのかな…。

 

命令上の書かれている内容とは?

 

刈谷市歴史博物館

 清正に対し、「(第1軍の)小西行長らに朝鮮出兵を命じたので、お前も出陣せよ。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断しないように」と伝える。また、「先に行った者たちが道中で詰まっているので、皆で相談してスムーズに進めるように」という趣旨の秀吉らしい細かい指示もある。3月23日の日付があり、文禄の役で第2軍を率いて4月に出兵した1592年のものと推測される。

朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチで竜のようなマークが特徴の秀吉の朱印と

書状の紙質・形状などから本物と断定されました。

まとめ

今回見つかったことにより、新たな事実がわかるとまた歴史がかわっていくのかな。

新しいことがわかれば新たな謎が生まれるかもしれないし、タイムマシーンがあればと思ったりしますが、少しずつ新たな発見があるからおもしろいですね。

次は、何が発見されるのかたのしみです。

では、今回はこの辺で。ありがとうございました。

 

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Posted by ゆずころ