金閣寺の歴史的背景を年表で簡単に紹介!放火事件の真相は?

今回は、鹿苑寺(ろくおんじ)こと金閣寺を紹介します!
- 金閣寺について
- 歴史的背景を年表で紹介!
- 放火事件の真相について
豆知識を入れながら紹介していきます。
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鹿苑寺(金閣寺)について
正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)といいます。舎利殿(シャリデン)金閣が余りにも有名なため、通称金閣寺とよばれています。
※舎利殿とは、 仏の遺骨を安置する堂
もとは鎌倉時代の公卿、西園寺公経(きんつね)の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受けて、山荘・北山殿(きた やまどの)を立てたのが始まりです。
義満死後に、禅宗寺院鹿苑寺(金閣寺)になりました。
宗派は、臨済宗相国寺派に属し、鹿苑の名は、お釈迦さまが初めて説法された地名、鹿野苑にちなんでつけられた創設者・足利義満の法号鹿苑院殿からきています。
そういえば、子供のころに見たアニメ「一休さん」で、金閣寺で、義満と一休さんが、とんち合戦していたの思い出しました。
実際どうだったのか、歴史的にどうなっているのかはまたのきかいに。
鹿苑寺という名前は今回初めてしりました。金閣寺は、通称やったんですね。
金閣寺の歴史的背景を年表で紹介!
1224年 鎌倉時代に西園寺公経が西園寺を建立。それに併せて北山第を営む。
※公経の子孫西園寺家が代々所有していました。西園寺家は朝廷と鎌倉幕府との連絡役(関東申次)を代々努めてたのですが、鎌倉幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待し暗殺をしようとする謀反が発覚!
そのため西園寺公宗は逮捕され、処刑されます。それに伴い西園寺家の膨大な土地や資産は没収されました。そのご西園寺は修理されることもなくだんだん荒れていったのです。
1358年 足利義満が誕生
1368年 義満、正式に室町幕府第3代将軍を宣言する。
1394年 義満は将軍職を子の義持に譲るが、実権は手放さず、北山第にて政務を執っていた。
1397年 室町幕府3代将軍・足利義満が河内の領地と西園寺を交換します。
1398年 一年足らずで西園寺を改装、新築により一新しました。義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれ邸宅とはいえ、御所に匹敵するぐらいの規模でした。この場所で政治の中枢をすべて集約していました。
1403年 相国寺七重大塔(高さ約109メートル:日本史上で最も高い仏塔)の焼失
1404年 七重塔(大塔)造営が北山第にて開始されるが、1416年 落雷により全焼する
1408年 義満が死亡ご、北山第に住んでいた異母弟義嗣を義持は追放し自らここに住む。
1409年 義持は北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。※三条坊門第は三条殿・三条高倉殿とも呼ばれ、室町幕府の足利将軍家の邸宅
1419年 義満の妻北山院日野康子の御所になっていたが北山院が亡くなると舎利殿以外の寝殿(※上層住宅の建築様式)等は解体される。解体されたものは南禅寺や建仁寺に寄贈された。
1420年 旧・北山第が夢窓疎石を開山として義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた
1467年 応仁の乱では、西軍の陣となる。戦場の中心となった京都は火の海、社寺、民家はほぼ壊滅状態に。金閣だけは無事だったが、義満建立の鹿苑寺を失う。江戸時代入ってから、主要な建物が再建されることに。
1488年 鹿苑寺境内に客殿が造営される
1537年 金閣寺の住職・梅叔(ばいじゅく)法霖が金閣・舎利殿を改修する。
1573年 室町幕府滅亡。宇喜多秀家が不動堂を再建。
1624年-1644年 金森宗和(武将・茶人)が金閣寺(鹿苑寺)境内に茶室・夕佳亭を造営
1649年 金閣寺(鹿苑寺)の改修工事が始まる
1661年 金閣寺(鹿苑寺)境内に方丈を創建。
明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失う。
※廃仏毀釈とは、仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破棄し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す
1894年 庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保する
1897年 特別保護建造物に指定される。
1904年-1906年 金閣寺(鹿苑寺)舎利殿改修工事。1代目(初代)鳳凰取り外し2代目鳳凰と交換。
1950年 修行僧が金閣・舎利殿に放火、舎利殿全焼する
1955年 助金、経済界や全国各地からの寄付金など約3000万円(当時)が集められて、金閣寺(鹿苑寺)の再建工事が開始される。鳳凰取り外し3代目鳳凰と交換。
1986年-1987年 金閣の昭和大修復が行われた。金箔全面張り替える。※金箔20万枚、費用は7億円以上
1997年 夕佳亭の解体修理。
1994年 世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録される
2007年 金閣寺(鹿苑寺)境内の方丈の解体修理が完成を迎える
もともとは、邸宅だったんですね。金箔の家って豪華ですよね。
鹿苑寺という名前が浸透しないのはやはり、金閣寺の印象が強いからですね。銀閣寺は見に行ったことがあるんですけどまだ、金閣寺は見にいったことがないので見にいきたいですね。
放火事件の真相は?
1950年7月2日未明、当時、金閣の修行僧であった「林養賢」に放火され全焼してしまいます。放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失しました。
寺の金で徒弟を大学に進学させている事を知っていた父親が「息子が学校を出て立派な僧侶になれるようにと」鹿苑寺の住職に手紙を送ります。鹿苑寺住職から返事をもらった父はほどなくして亡くなったのです。
林養賢は、徒弟になり学校の成績も初めはよかったのですが、学年が上がるにつれ下がっていきました。
成績が下がり、いろいろ思い悩むようになりっていったのです。
そして、放火事件を起こします。
逮捕直後の言葉が
「自分でも現在の自分の心が割りきれないが、火をつけたことは悪いとは思わない。金閣の美しさを求めて、毎日訪れる参拝者の群を見るにつけて、私は美にたいし、またその階級にたいして、しだいに反感を強くしていった。世の中の美は、自分にとって醜いと感じたが、反面、その美にたいするねたみを押さえることができなかった。これは自分たち若い世代のものが、悪い環境におかれているためかもしれない。あるいは、自分のドモリからくる精神的な苦しみからかもしれないが、この考え方が、醜いと感ずると同時にこれは強く打ち消し、これでいいのだという矛盾した考えかたに悩まされた。そのあげく、悩む自己に解決をつけるため、社会革新の立場から実際行動に移るべきだと決意した」
「金閣寺の優美さを呪い、反感を抑えきれなかった」と動機を語っています。
【裁判】
12月28日、京都地裁、林に懲役7年(求刑同10年)を言い渡す。
林は加古川刑務所で服役していたが、52年に恩赦で5年3ヶ月に減刑された。
1953年に精神分裂症と結核の診断を受け、東京・八王子の医療刑務所に送られている。
1955年年10月に出所したが、翌年3月に肺結核のため、26歳の若さで死亡している。現在の金閣寺執事長・江上泰山氏は林の弟弟子だった。江上氏によると、物事の善悪を明確にする禅だが、林は迷いがあり中途半端だったという。
まさか、弟子によるはんこうだったんですね。金閣寺の美しさに嫉妬を覚えんですね。
戦後すぐの時代であまり裕福な時代ではなかったはずですから、学校に行けるだけでも恵まれた環境だったと個人的に思うんですけど…
まとめ
金色に輝く金閣寺も昭和にはいってからの立て直されたんですね。放火事件で歴史あるものが焼失してしまったのは残念ですが、当時の人の全力で今も、建立された当時とほぼ同じ形で見ることができるんですね。
金箔の量もすごいし日本の職人さんの技術は凄いと思います。
はるか昔は邸宅だったりと知らないことを知ってから、訪れると感慨深いんじゃないでしょうか。
個人的にはやっぱり一休さんとのとんち合戦の場、そんなイメージが強いんですけどね。アニメの話なんで実際はどうだったのか気になりますが今回はこの辺で、ありがとうございました。
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