貴船神社恋愛にまつわる伝説を紹介!呪いの絵馬や藁人形について調査しました

今回は貴船神社にまつわる伝説を紹介します。
- 恋愛にまつわる伝説を紹介します
- 呪いの絵馬って何?
- 呪いの藁人形いまだにあるんです。
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目次
貴船神社にまつわる恋愛伝説
和泉式部
和泉式部は平安時代中期の歌人です。ちなみに小倉百人一首にも和泉式部の歌が選ばれています。
小倉百人一首56番「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」
意味は意味 「私はこのまま病気でまもなくこの世を去ると思います、来世への思い出に、もう一度あなたにお逢いしたいのです」
百人一首に選ばれている通り特に情熱的な恋に関するすぐれた和歌を多く残しています。
少し長くなりますが、和泉式部は源氏物語で有名な紫式部に
「恋文や和歌に関しては才能があり、ありふれた言葉にも気品や美しさが表現されていて素晴らしい」と、称賛されていますが、その一方で「素行の悪さには感心できない」と言われるぐらい和泉式部は恋多き女性として有名でした。
そんな和泉式部と貴船神社の関係は?
恋多き和泉式部
和泉式部は、最初に和泉守となる橘道貞の結婚し、夫と共に和泉国にはいります。和泉式部の和泉はここからとった別名・通称です。
橘道貞との間に女の子を一人授かります。※ちなみに娘(小式部内侍)も百人一首に和歌が選ばれています。
幸せは続くことなく二人は別居してしまいました。
そんな傷心をおった彼女の前に王子様が現れました。彼の名前は為尊親王殿下、教養がありとても優しいお方です。二人は惹かれあい大恋愛と発展していきました。が、天皇の子である為尊親王殿下と、別居中とはいえ人妻の和泉式部。
周りは大反対、許されざる恋だったのです。
だからこそ和泉式部は親に勘当されても全てを失っても、為尊親王殿下との恋を選ぶぐらい熱く恋に燃えていました。
しかし、為尊親王殿下との大恋愛のさなか一年程で、親王殿下は亡くなってしまったのです。
和泉式部は悲しみ包まれていました。
そこに現れたのが、為尊親王(ためたかしんのう)殿下の弟である敦道親王殿下でした。敦道親王(あつみちしんのう)殿下はとても積極的でした。
正妻(藤原氏の娘)がいるにも関わらず親からも勘当され行くあてもない和泉式部を自分の屋敷に住まわせました。その結果正妻は家を出て行きます。
3年後、和泉式部と敦道親王の間には男の子(後に法師になっています。)が生まれましたが、幸せは永く続くことはありませんでした。
敦道親王が、26才という若さでお亡くなりになられたのです。
和泉式部にとって、心から愛した人が相次いで亡くなってしまったのです。どれほどの悲しみに包まれたのか…。
行くあてもない和泉式部に救いの手を差し伸べたのが、藤原道長でした。
そのころ道長の娘である彰子が皇子を産んでいました。
この時既に彰子には紫式部が使えていました。道長は一人でも多く優秀な人材を娘のために仕えさしたかったのでしょう。和泉式部の事はあまり好きでなかったようで陰口を言っていたほどです、娘に仕えさせるくらいですから才能の面は高く評価していたと思います。
時は流れて
和泉式部新たな出会い
宮中で働くようになって十数年がたったころ和泉式部の前に、20歳も年上の当時50代の藤原保昌が現れました。
とてもやさしい男性で、藤原道長からも厚く信頼されている人物でした。
藤原保昌は、彼女の過去も全て知ったうえ結婚し男の子を一人もうけました。連れ子も可愛がるとても優しい人でした。この結婚は周囲の後押しもあり幸せかと思いきや当時は通い婚社会。
中々会いに来てくれない夫。
縁結びの神様でもある貴船神社に、和泉式部は参拝することに。
和泉式部と貴船神社
夫である保昌が、なかなか通ってきてくれなくなり復縁したいと貴船神社にお参りに行きました。
京の都からは離れた所にあるので帰るころには少し暗くなっていました。
その帰り道、御手洗川で飛ぶ蛍をみて、和歌を詠み神様にたくしました。この歌は歌碑にもなっています。
「ものおもへば 沢の蛍も わが身より あくがれいづる 魂かとぞみる」
意味は、夜の暗闇の中あなたが恋しくて、今を真剣に考え物思いにふけています。その時、沢をふわふわと待っている蛍が、さ迷っているようで自分の身体から抜き出てきた魂のように思えます。
夫、保昌を思い読んだ歌だとされています。
女性が待つのが当たり前の時代せめて蛍になって(魂だけでも)愛する人の側にいたいと想う女心がこめられているようで少しせつないですね。
そして、この後には続きがあるのです。
和泉式部が、思い付いた歌をしたためていた時、頭の中で声が響きました。
「奥山にたぎりて落つる滝つ瀬の たまちるばかりものな思ひそ」
と、頭の中に聞こえきたのです。
意味は、奥山にたぎって落ちる滝の飛び散る水の玉のように、魂が散ってしまう事ばかり思ってはいけないよ。
いずれ人は、死ぬんだから死ぬことを考えてはいけない。
声の主は、ただの幻聴だったのか、神様だったのか今は亡き二人の親王殿下だったのか…。
彼女はその歌を書き留めています。
その後、和泉式部は夫と共に夫の赴任先・丹後で暮らしています。
寄りを戻せたんですね。
これが、復縁伝説になっています。
平安時代には縁結びの神社だったんですね。復縁をねがいそれが叶ったことにより復縁にも良い神社になったんやね。
しかし、和泉式部は恋多き女性というから魅力的な人やったとは思うんですけど、正妻いてるのに…。と思うところもあったりしますが、昔は一夫多妻や側室とかあったりしましたからね。この辺は時代なんやろうと仕方がないのかな。
縁切り伝説・丑の刻参りの始まり
縁結びの神社でもあり、縁切りの神社でもある貴船神社。
縁切り神社と言われるわけとは、
橋姫伝説 平家物語より
時は嵯峨天皇の時代の事。ある公卿に一人の娘がいました。その娘はあまりにも嫉妬深い人物でした。
ある日、貴船神社に参詣して七日の間籠もり祈りました。
「貴船神社様、お願いがあります。七日間籠もったさい、私を生きながらに鬼に変えてください。妬ましい女を取り殺したいのです」
それを聞いた貴船の明神様は娘を哀れに思いこうおっしゃいました。
「本当に鬼になる気持ちがあるのならば、姿を変えて宇治川に二十一日間つかりなさい」
それを聞いた娘はたいそう喜んで都に帰りました。
そして、人のいてない場所に籠ったのです。
明神様に言われた通り姿を変えました。
長い髪を五つに分け五つの角を作り、顔に紅をさしました。そして、体には赤土を塗り、鉄輪(かなわ、鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、三つの脚に松明を燃やし、別の松明を口にくわえて両端に火を付けました。
その姿はまさに鬼そのものでした。宇治の橋姫は生きながらにして鬼人となったのです。
橋姫は、愛する人を取られて妬ましく思っていて女やその家族、愛していたはずの男とその家族を次から次へと殺していきました。
そのうち、関係のない人々まで殺しはじめ、男の人を殺すときには女の姿になり女の姿になる時は男の姿になるのでした。
そのころ摂津の国の渡辺綱という人物が、源頼光の使いで一条大宮に用事のため訪れていました。その夜の帰り道に一条堀川の戻り橋を渡る時、夜道を歩く女性を見かけました。
こんな夜更けに女性が一人で歩いてるのは、危ないと渡辺綱は
「5条通りを通るのでよかったら、送りましょうか?」
女は「よろこんで」というので、綱は馬に女性を乗せ、走りだしました。
すると女は「私の、住んでいる所は郊外なのでそこまでおくって頂けないでしょうか?」といいます。
綱は「大丈夫ですよ。そこまで送りましょう」とかえしました。
すると女は鬼の姿になり「我らが行く場所は愛宕山だ」といって綱の頭をもって飛び立ちました。
綱は冷静に刀を抜き、鬼の手を切り落としました。鬼は手を切られながら愛宕山まで飛んでゆきました。
鬼の手を見た源頼光は、すぐに安倍晴明を呼び寄せ「どうしたらよいか?」と尋ねました。
晴明は「綱に7日間の暇を与え謹慎させてください。その間私が仁王経を読んで鬼の腕を封じます」と答えたのでそのようにしたというところです。
平安時代と鎌倉時代で話が変わった
もともと平安時代まで、「宇治の橋姫」は源氏物語のタイトルになるほど愛しい恋人の例えだったのです。そして、宇治橋の守り神でもあります。
それが、鎌倉時代の平家物語から、読みやすいように編集された異本「源平盛衰記」などに収録されている「剣巻」では、橋姫を鬼にした話になっているのです。
それが現代まで伝っています。丑の刻参りの始まりとも言われています。
宇治橋のちかくには宇治橋姫神社があり、現在でも多くの人々の信仰を集めています。
また、源頼光・源綱・安倍晴明の時代は、嵯峨天皇の時代より200年後のことです。
源平盛衰記の中では歳月の経過は特に描写されていないようです。話の中の登場人物と時代は合わないので創作話か他の話と混じっているのか、もともとは「宇治の橋姫」は源氏物語のタイトルになるほど愛しい恋人の例えと言われていたのに。
何故鬼になりたいと願う人物にされてしまったのか、不思議でなりません。
この話が元で丑の刻参りが始まったと言われています。
因みに安倍晴明について知りたい方は、こちらをどうぞ。
絵馬発祥の地
貴船神社は、絵馬発祥の地でも有名です。
絵馬発祥の地と言われるようになったのは、昔晴れを願う時には「白馬」を奉納し、雨を願う時には「黒馬」を奉納していました。
本物の馬の代わりに木に馬の絵を書いて奉納することもあったのが絵馬の始まりまりです。
「神馬の絵馬」「和泉式部の絵馬」「竜神様の絵馬」の絵馬があります。
本物の馬を奉納していたところから、絵に馬を書いて奉納するようになったんですね。
だから、絵に馬と書いて絵馬なんやね。なんで馬の字が使われているかって不思議だったんですが、一つ勉強になりました。
馬の絵が描かれていない絵馬も多いですからもともとの意味を知るのもたのしいですね。
呪いの絵馬と丑の刻参り
ここまでの説明だと普通の絵馬やんってなりますが。
もともとは、晴れや雨をもたらして欲しい時に行われてたのがいつしか呪いの絵馬に( ゚Д゚)
縁切り神社でもあるため、
呪いの絵馬とは、訪れた際奉納されている絵馬を読めばわかると思いますが、
人を呪うというか悪口というか、読んでもいい気にならないものが書かれているようです。
それが呪いの絵馬。
ここでは、紹介は控えますが…。個人的には紹介したくないな…。というような言葉が書かれています。
現在進行形で行われているというのが人の闇を感じますね。
中には、ギャンブルから足を洗いたいとか、たばこ・お酒をやめたいとかもあるんですけどね。
呪いの絵馬は、縁切りで紹介したように呪いの藁人形で有名な丑の刻参りと関係があるのかもしれませんね。
現代でも丑の刻参りを行う人が一定数いるみたいです( ゚Д゚)
丑の刻参りまでは、しなくても絵馬に書いて達成できればいいという気持ちもあるのかもしれないですね。
因みに丑の刻参りは、
丑の刻参りは奥宮で午前1時~午前3時にかけて行われます。
法律に触れる行為にあたると言われているので丑の刻参りはやめましょう。
不法侵入罪(閉門後の神社への不法に侵入)貴船神社は遅くても午後20時には閉門です。
器物破損罪(御神木に五寸釘を打つ)
脅迫罪(相手に呪いを行っていると告げた場合のみ適応されます)
実際に、昭和29年に丑の刻参りを行った女性が脅迫罪で逮捕された事も…。だいぶ昔ですが。
今でも行う人がいるんですよね、そんな暗い山奥で…。怖すぎます。
悪縁を断ち切ることによって良縁を結ぶことができる。
貴船神社には、二つ備わっているそんな場所なんですね。
人って闇の部分抱えてたりしますけど、個人的な意見としては最後は自分に返ってくるとおもっています。
良いことをすればよいことが、悪いことをすれば悪いことが。子供の頃そんな風なこと聞いたことがあるので。
いまでも、呪いの藁人形を取り除いても、新しく打ち付けられているようです。法律的にもよくないのでやめましょう。
まとめ
縁結び、復縁、縁切り、そして呪いと貴船神社には沢山の伝説や現在でも行われている丑の刻参りと様々姿があるんですね。
和泉式部、恋多き女性とも言われていたようですが、愛する人を相次いで若くして亡くすしているのは辛いより喪失感の方強かったかも知れないですね。
そして、娘も子供を生んですぐに亡くしているのです。
今回は紹介しませんでしたが、娘が親より先に亡くなるという辛い現実も歌によんでいます。
復縁は成功したのか、夫の仕事とのため共に丹後で生活していますが、不満が多かったのかそんな話も残っているようですね。
縁切り、呪いとあまり不幸な事は、書きたくないなと思いつつ人って、人の不幸話けっこう興味があったりするんですよね(>_<)
自分は、全然ましなほうやなって、勝手に優越感にひたる。
人は何かしら闇を抱えて生きているのかも知れないですね、それが行動に出るか出ないかってだけなのかも知れないんやと。生きづらい世の中やなと思ってしまいますね。
今回は、貴船神社に伝わる伝説を紹介しましが、いかがでしたか?
では、今回はこの辺で。ありがとうございました。