ジョー・バイデン前米副大統領の経歴や学歴は?生い立ちや家族を調査!

2019年9月1日

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こんた

ジョー・バイデン前米副大統領について紹介します。

 

2020年アメリカ大統領選・民主党候補の一人。

ジョー・バイデン前米副大統領の

  • オバマ大統領時代は副大統領!それ以外の経歴や学歴はどうなっているの?
  • 生い立ちや家族はどんな感じ?
  • どの様な政策を打ち出してるの?

など紹介します。

ジョー・バイデン前米副大統領の経歴や学歴は?生い立ちや家族を調査

社会主義的な政策で「バーニー旋風」は、オバマ大統領時代に米副大統領をしていました。

2016年の大統領選の時には、ヒラリー氏と大接戦!社会主義的な政策で「バーニー旋風」を巻き起こし2位に。

 

生年月日 1942年11月20日 76歳
出生地 ペンシルベニア州

地盤 デラウェア州

出馬表明 2019年4月25日

現在、今の所一番の有力候補といわれるようですが、民主党の候補者が顔を合わせたテレビ討論会でつまずき世論調査でも下落気味に。76歳という年齢がネックになったようです

人物像としては、

  • 酒は全く飲まないと公言。理由は彼の近親者にアルコール依存症が広まっているから。
  • 幼少期は吃音症で悩み、20代になるまで治らなかった。吃音症を治すために毎日鏡に向かって詩を朗読し、懸命に発音を矯正しました。

 

人物像を見る限り真面目で努力家なひとなんですね。

 

一方で、2019年3月、民主党内部の二人の女性から複数のセクハラ行為を告発されています。4月3日、自身のTwitterに投稿した動画でセクハラ問題について釈明しましたが

その後も告発者が続き、4月5日現在、7名の女性が名乗り出ています。

 

セクハラ…ほんとだったら許しがたい行為ですね。

日本よりアメリカの方がセクハラに対して厳しいと思うんですけど立候補しているってことは、何もなかったのか?ほんとだったらイメージ悪いですからね。

 

学歴・経歴は?

ジョー・バイデン氏の学歴や経歴をまとめて見ていきたいとおもいます。

学歴

クレイモントにあるカトリック系の私立学校、アーキメア・アカデミーへ入学(1961年の卒業)

 

在学中はフットボールと野球に熱中。

特にフットボールにおいては、高校のフットボールチームに所属し、ハーフバックやワイドレシーバーのポジションで活躍、長年にわたって敗北続きだったチームを最終学年時にはシーズン無敗を達成するまでの強豪チームに成長させた

 

学業に関しては平凡で目立たない生徒でしたが政治活動については積極的に取り組んでいます。ウィルミントンの劇場で行われた人種差別に反対する座り込み活動に参加するなど、バイデンはリーダーシップを発揮する生徒でした。

 

1961年にアカデミーを卒業した後は、ニューアークにあるデラウェア大学に進学。

歴史学と政治学を専攻しています。

当初はアカデミー時代と同様にフットボールに熱中していましたが、しかし大学3年の時に、デラウェア州外に住む恋人と過ごす時間を確保するために、大学代表チームでディフェンシブバックとしてプレーする計画を諦める。

 

1965年に卒業。

スポーツや友人・恋人との交際に熱中し過ぎたためか、専攻していた歴史学と政治学において学士号を取得していますが、688人中506番目というあまり良くない成績で卒業することに…。

しかし友人たちは、むしろバイデンの詰め込み勉強の才能に驚かされたという

 

その後、シラキューズ大学のロースクールに進学。

在学1年目に法律評論誌の記事(全15ページ)から5ページにわたって論文を盗用したとして、学校から処分を受る。
引用についてのルールを知らなかったとして、不注意で起こたと事なので悪意はなかったと否定しています。

 

1968年に法務博士号を取得、卒業した翌1969年にはデラウェア州弁護士会へ加入し、ウィルミントンで弁護士として開業。

ロースクール在学中の1966年、彼は最初の妻であるネイリア・ハンターと出会い結婚。
ネイリアとの間には2男1女(ジョセフ3世(愛称:ボー)、ロバート、ナオミ)をもうける

 

経歴

1970年から1972年までニューキャッスル郡の郡議会議員に選ばれ同職を務めた

1972年の上院議員選挙に民主党から出馬。連邦上院議員では建国以来5番目の若さでの当選。

 

1972年12月18日上院議員に当選直後、ネイリアとまだ幼かったナオミが事故死。

 

一度は息子たちの看病・世話を理由に議員職を辞退をきめますが、当時民主党の上院院内総務であったマイケル・マンスフィールドから辞退を思い留まるよう説得を受ける。

そして、議員に就任することを決意。

 

1973年1月から他の議員と同様に通常どおり登院し、議員活動を開始した。(バイデンは30歳)

 

議員になるとワシントンD.C.に居住する議員が多い中、息子たちのために、ウィルミントン郊外の自宅とワシントンD.C.を毎日片道1時間半かけて電車通勤していた

 

1979年、エジプト・イスラエル平和条約調印

 

1974年、バイデンはタイム誌の「200 Faces for the Future」の1人に選ばれるなど、議会の内外で活躍の場を広げ、知名度を高めていった。

 

1977年に2人目の妻ジル・トレイシー・ジェイコブスと結婚し、1女(アシュリー)をもうける

 

以後バイデンは、順調に政治活動を展開していく。

1978年の選挙で再選、1984年の選挙で3選を果たすなどベテラン議員への仲間入りを果たしていく。

 

1987年 初めて常任委員会の委員長に就任(司法委員長、1995年まで務めた)

 

大統領候補に名乗りをあげるなど、精力的に活動を行うが、この時は英労働党党首の演説内容を盗用した疑いで撤退に追い込る

 

1988年2月、45歳の時、バイデンは首の痛みに悩まされた末に入院し手術を受ける。脳動脈瘤が破裂したのが原因。でこの時バイデンは一時危篤状態に生死をさまよう。

同年5月には2度目の脳動脈瘤の手術を受ける。議員活動の継続も危ぶまれましたが、懸命のリハビリを続け、入院からわずか7ヶ月で復帰。復帰後は、バイデンは再び上院議員として活躍

 

 

2008年時点では6回連続当選・在職36年目を誇る、上院民主党の重鎮になる

※ 故郷デラウェア州の歴史上、最も長く在職した上院議員となっている

 

2001年から外交委員会の委員長を務る。

2002年10月 イラクに対する武力行使容認決議案など、後のアメリカ外交を左右することになる重要な局面に立ち会う

2002年の中間選挙で民主党が少数党に転落 

 

2003年1月3日付で外交委員長職を離れる、民主党の幹事として党運営・議会運営に携わる

 

2004年 大統領選挙への出馬にも意欲を見せたが、最終的に断念

2006年11月の中間選挙で民主党が多数党に返り咲く

2007年1月4日より2度目の外交委員長職を務めている。
同時に、司法委員会に連なる犯罪および麻薬に関する小委員会の委員長を務る。
 

 

上院本会議においても、行き詰まりを見せていたイラク政策に関連して、

2007年9月26日に共和党のサム・ブラウンバック上院議員と共に、法的拘束力のない「イラク分割決議」成立させる。

 

2008年には、自身2度目の大統領選挙に挑戦するも、バラク・オバマ候補とヒラリー・クリントン候補の二強の形勢となり、1月3日に撤退。

8月23日に大統領候補の指名を確実にしたオバマから副大統領候補指名されこれを受諾。その後8月27日にコロラド州デンバーで開催された民主党全国大会で、オバマと共に正式に、民主党の正副大統領候補に指名された。

 

 

2008年11月4日(現地時間)に行われた大統領選挙の投開票で、オバマが第44代合衆国大統領に当選。これに伴い第47代合衆国副大統領に当選が確定

 

一期目の副大統領就任宣誓

2009年1月20日、バラク・オバマの第44代合衆国大統領就任に伴い、自身も第47代副大統領に正式に就任

 

サンディフック小学校銃乱射事件を受けて設立した銃規制の強化を検討するための特別チームのトップに

 

大統領自由勲章受章時

2017年1月12日、副大統領としての功労を讃えられ、大統領自由勲章をオバマ大統領より受章

受賞を事前に知らされていなかったバイデンは涙し、即興のスピーチを20分間行った

 

2016年大統領選挙にはオバマは任期制限により出馬できないため2015年9月11日の時点では出馬するか否かを決めていないと述べたが、同年10月21日に不出馬を表明。

ヒラリー・クリントンが指名を確実とした後の2016年6月9日に同候補への支持を表明

 

2017年6月、新たな政治行動委員会「アメリカの可能性」を設立。2020年のアメリカ大統領選への出馬検討を始めたとOnebox Newsが報じた。

 

2018年12月、モンタナ大学で行われた講演会で、今後6週間以内に2020年の大統領選への出馬の最終的な判断を行なうと明言。

2019年4月25日、2020年の大統領選挙へ出馬することを、正式に公表した

 

生い立ちや家族

生い立ちや家族を見ていきたいと思います。

 

生い立ち

父 ジョセフ・バイデン・シニアと、母 キャスリーンの間に、4人兄弟の長男として1942年11月20日、ペンシルベニア州スクラントンでうまれました。

元々は、裕福な家庭だったようですが、父親が数件の事業の失敗。

それによりジョー・バイデンが生まれた頃には母方の祖父母と数年にわたって同居しないと生活できないぐらい苦しい生活だったのです。

 

10歳になったころ、父親が生計を立てれれる程の収入を得られる仕事がなく、デラウェア州クレイモントに引っ越します。

その後、父親が働いていた清掃会社のあるデラウェア州ニューキャッスル郡のウィルミントンへ引っ越す。以後高校卒業までこの地で過ごします。

その後、父親が中古車のセールスマンの職につき、一家は中産階級家庭として安定した生活を送ることができるようになりました。

 

※ ウィルミントンは、ジョー・バイデンが弁護士として初めて開業した地でもあり、現在も自宅を構えている場所です。

家族を紹介

アイルランド系移民の子孫。4人兄弟の長男として生まれ、弟が2人と妹が1人。

また、最初の妻ネイリアとの間に2男1女、2番目の妻ジルとの間に1女をもうけています。

  • 曾祖父 エドワード・F・ブレウィット。ペンシルベニア州議会上院議員を務めていました。
  • (1915年 – 2002年)ジョセフ・ロビネット・バイデン・シニア
  • (1918年 – )キャスリーン・ユージニア “ジーン” フィネガン
  •  ジェームズ・ブライアン・バイデン
  •  フランシス・W・バイデン
  •  ヴァレリー・バイデン・オーウェンズ

 

  • 最初の妻。1972年に事故で死別 ネイリア・ハンター
  • 長男(1969年 – 2015年)ジョセフ・ロビネット “ボー” バイデン3世 デラウェア州の司法長官を務めた。脳腫瘍で死去民主党員。
  • 次男(1970年 – )ロバート・ハンター・バイデン 現在はロビー活動を手がける事務所オルデイカー・バイデン&ブレアLLPの共同設立者。アムトラック(鉄道旅客輸送を運営する公共企業体)の経営委員会の副議長を務める。
  • 長女(1971年 – 1972年)ナオミ・クリスティーナ・バイデン 母親ネイリアと共に事故で死別。
  • 2番目の妻 ジル・トレイシー・ジェイコブス・バイデン
  • 次女(1981年 – )アシュリー・ブレイザー・バイデン 現在はソーシャルワーカーとして勤務。

 

事故死の原因

 

3人の子供たちを連れて妻のネイリアはクリスマスの買い物をするために、車で出かけました。

ネイリアの運転する車が、交差点でトレーラーに追突されたのです。ネイリアとまだ幼かった娘ナオミが亡くなるという悲劇が、助かった息子ボーとロバートは生き残ったものの、瀕死の重傷を負いました

この事故に関しては、追突した側のトレーラーの運転手には過失がないことが解っています。

 

ジョー・バイデンは、毎年12月18日には、自動車事故で他界した1人目の妻ネイリアと長女ナオミを偲ぶため、一切の仕事をしない

 

上院議員に当選直後に起こった悲劇。妻と幼い娘を亡くされているんですね。長男も病気で若くして亡くなるとは想像を絶するぐらいショックだったのでないかと思います。

政策は?

政策に関しては、

最も得意とする外交分野においては、様々な発言や政策提言を行っています。
各国を訪問するなど行動派の一面も見せている。
 
 
基本スタンスは、

 

国際自由主義の信奉者であり、彼の外交政策スタンスにも反映されている。上院においては、国際自由主義を掲げる共和党の重鎮、リチャード・ルーガー、ジェシー・ヘルムズ両上院議員(ヘルムズは故人)と投票行動を共にすることが多かった。
そのため、民主党の方針に反することもしばしばあった
 

主な政策

司法委員として様々な問題に取り組んでいます。その中でも特に熱心に取り組んでいるのが麻薬政策。また、麻薬政策のみならず、犯罪防止政策や人権政策などにも積極的に取り組んでいます

まとめ

今回は、ジョー・バイデン前副大統領について紹介しました。

子供の頃は、裕福な家庭でなく貧しい時代をすごし、吃音直すため毎日努力をする。

 

学生時代は勉強の方はあまり成績は良くなかったかもしれないですが、30年以上議員を務め副大統領も務めるぐらいの政治家としては凄い才能の持ち主なのかなと思いました。

 

議員になってすぐ、奥さんや幼い娘さんを亡くしたりと、つらい経験をしてきたとおもいます。残された息子さんのために電車通勤したり、自身も死の淵をさ迷ったりと波乱万丈な人生を送ってはるんやなと76歳と決して若い年齢ではないですがアメリカ大統領選挙のゆくえがどうなるか気になりますね。

では、今回はこの辺でありがとうございました。