姫路城の歴史を年表で簡単に紹介!歴代城主や井戸にまつわる伝説を調査。

皆さん、今回は姫路城の歴史を紹介します。
- 姫路城について 別名は白鷺城の由来は?
- 姫路城の歴史を年表で簡単に紹介 どんな歴史がどらまがあったのか?
- 歴代城主は?黒田官兵衛のほかは誰が務めたの?
- 誰井戸にまつわる伝説 お菊さん
以上のラインナップを中心に豆知識をなど調査、紹介します。
目次
姫路城について
姫路城は兵庫県姫路市にあります。
別名は、白鷺城(はくろじょう)が正しい呼び方で近年では(しらさぎじょう)とも呼ばれています。
別名の由来として4つの説があります。
- 姫路城が「鷺山(さぎやま)」に建てられたことから
- 白漆喰で塗られた城壁の真っ白い美しいことから、この説は有名ですね。
- ゴイサギなど白鷺とよばれる鳥が多く住んでいたことから。
- 姫路城に近い岡山城が黒い壁から「烏城(うじょう)、金烏城(きんうじょう)」と呼ばれていてその対比から
別名の由来は壁の白さからきているとばかり思っていましたが、他にも説があったんですね。
姫路城天守の置かれている「姫山」はその昔「日女路(ひめじ)の丘」と呼ばれていました。『播磨国風土記』には「日女道丘(ひめじ
おか)」と書かれているのがのっこています。その姫山に桜が多く咲いていたことから「桜木山」とよばれ、それがいつしか「鷺山(さ
ぎやま)」と言われるようになったとされています。
どの説が正しのかは、わからないですがいつしか人々の間では白鷺城と呼ばれていたんですね。大改修が行われ真っ白い壁がよみがえっ
て白鷺の名前がふさわしく感じます。
誰が初めに白鷺上と呼ぶようになったのかな?気になりますけど今となってはわからなですね。
写真は自分で撮ったんですけどお城より手前の世界遺産姫路城って書いてる石のほうがメインになってますね(>_<)
姫路城の歴史を年表で簡単に紹介

次は、姫路城の歴史を年表を使ってわかりやすく紹介します。
南北朝時代・戦国時代
1333年 播磨国守護の赤松則村が、上洛途中の姫山にあった称名寺を元に縄張りをはる(砦とりでを築く)。一族の小寺頼季に守備を命じる。
1346年 赤松則村の次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした。
1349年 貞範が新たに庄山城を築城して本拠地を移す。再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める。
1441年 嘉吉の乱で赤松満祐・教康父子に対して山名宗全が挙兵。そして城山城にて赤松父子は自害し赤松氏は断絶。赤松満祐に属して
いた姫山城の城代・小寺職治は討死しました。その後、山名氏が播磨国守護になり山名氏の家臣・太田垣主殿佐が姫山城の城代に。
1458年 長禄の変での功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許される。
1467年 応仁の乱で弱体化した山名氏から赤松政則が播磨国を取り戻す。姫山城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築く。
1469年 赤松政則が置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代にる。
1491年 小寺豊職の子・政隆が城代になる。御着城の築城開始する。
1519年 政隆が本拠地を御着城に移し、子の則職が城代になった。
1545年 則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。
1555年~1561年の間に、黒田重隆・職隆父子の主君・御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として改築するしたといわれています。
姫路(姫山)に城があったと確認できるのは、正明寺文書などの史料を根拠に姫路城の始まりという説もあります。
1567年 黒田職隆の子・孝高が城代になる。
1573年 孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。
安土桃山時代
1576年 中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐する。織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。黒田
孝高(官兵衛・如水)は小寺氏の家臣でありながらも早くから秀吉に通じていたため秀吉に仕えることに。
1577年 孝高(官兵衛・如水)は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲る。
1580年 播磨が平定されると孝高(官兵衛・如水)は秀吉に姫山城を献上する。自らは姫山城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移る。
1580年4月~1581年3月にかけて秀吉は、姫山城大改修し、姫路城に改名する。当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守
(3層)を建築する。それにあわせて城の南部に大規模な城下町をつくり、姫路を播磨国の中心地となるように整備。
1581年 秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣。
1582年 6月 秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たす。
1583年 天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入った。
1585年 豊臣秀長大和郡山へと転封。替わって木下家定が姫路城にはいる。
1600年 池田輝政が関ヶ原の戦いの功績により播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。
1601年 輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受け8年掛けて大改修する。豊臣秀吉の築城した3層の天守閣は壊
わされ、現在の5層7階の天守に造られた。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)・赤穂城・三木城・利神城・龍野城・
高砂城も整備された。
江戸時代
1617年 池田氏は跡を継いだ光政が幼少であったため、因幡鳥取へ転封。伊勢桑名から本多忠政が入城した。
1618年 千姫(豊臣秀頼の元正室)が本多忠刻に嫁ぐ。化粧料を元に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
※化粧料 江戸時代に女性が嫁ぐ際に取り交わされた持参金や土地・権利のこと |
その後、城主は本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家…。と目まぐるしく入れ替わる。
1749年 上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。
明治時代
1871年 廃藩置県が実施され陸軍が置かれ大阪鎮台の管轄下にる
1873年 廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。
姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭(現在の価値に換算して約十万円)で落札。。
1877年頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるように
1878年 陸軍・卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した
1908年 市民による白鷺城保存期成同盟の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく
1910年 国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。
大正時代
明治の大修理終了後、一部の城域を借り受け、姫山公園として整備
1912年(大正元年)8月から一般公開を始めた
1919年 陸軍省が西の丸を修理している。
昭和時代
1928年 姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。
1931年1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は
「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年施行の文化財保護法における重要文化財にあたる。
太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠していた。
1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた、翌朝、焼野はら中に無事に建つ姫路城を見て姫路市民は涙したという
1956年 大天守の修理を「昭和の大修理」なお、この機会に城の傾きを改善するために、礎石の取替えが行なわれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物になった。
平成時代
1993年 12月11日、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産(文化遺産)に登録された。
2009年~2015年 姫路城大天守保存修理工事が行われることとなった。これがいわゆる「平成の大修理」
この地にお城がたってか700年以上の間に何度も修復し廃城令で一時は廃れてきたり、第2次世界大戦では戦火をま逃れたり数奇な運命を
とげてきたんですね。世界遺産に登録されていて世界中に自慢できるお城の一つです。
始めは小さな砦からだんだん大きく立派になって黒田官兵衛も城主を務めたりと秀吉も城主をつとめたりと多くの人が城主も努めています。
詳しくわ後程紹介します。
明治時代に、残そうという働きがあったから今も立派なお城がみられるし、昭和に入って戦争でまわりは、焼け野はらの中爆弾はあたっ
ていても不発だったから燃えずに助かったり運が良かったと言えばそれまでですが、残るべきものは残っていくとんだと信じたいですね。
次の話はちょっとせつない話です。
姫路城にまつわる悲しい話
池田輝政の依頼を受けて9年がかりで姫路城を立てた大工の棟梁の話。
棟梁の名は桜井源兵衛といいました。源兵衛は人生最大の大仕事、棟梁の誇りをかけていどみました。ながい年月をかけてそして遂に完成!
苦労をかけた奥さんにも純白に輝く姫路城の姿見せたい。源兵衛は奥さんの喜んでくれる姿を想像してたに違いありません。
いざ、奥さんとお城を見にいきました。源兵衛は立派な城が出来ただうと自慢のお城を案内。奥さんは立派なお城にとても感銘をうけました。
しかし、奥さんは源兵衛にもうしわけなさそうに「私にはお城が傾いて見える」と言いました。
よく見ると天守が傾いていたのです。素人の奥さんにでもわかるぐらいの傾きですから、源兵衛は自分のミスだと、設計を間違ったのかもしれない…。
大事な仕事でミスをおかしてしまった。その時の源兵衛の気持ちを考えると、まさに天国から地獄だったに違いありません。
喜んでくれるはずの奥さんからそんな言葉が出て来るとも思わなかったはず。素人に指摘され棟梁としてのプライドが許さなかったのでしょう。
その後、ノミを口にくわえて、棟梁は天守閣のてっぺんから飛び降りたと言われているのです。
東に傾く姫路の城 花のお江戸が恋しいか 姫路城の傾きを伝える俗謡が残っています
また、城の完成を待って要塞でもある城の弱点を知り尽くしている大工を殺したという説も…。
現在その時の傾きは昭和の大改修で直されました。
天守閣が傾いた原因は、実は棟梁のミスではなかったのです。天守を作る際に行った盛り土の土固めが不十分だったために、石垣の重さ
で沈んだことにより傾いたものでした。
現在と違って重機などのない時代であんなに立派なお城を建てた技術は素晴らしいものだと思います。棟梁のミスではなっかた事を、き
っとあの世で自分のミスではなかったんだと喜んでいると思いたいです。
本当に切ない話ですね、今の世の中、建築基準法があるのにそれを守らず後から問題発覚すことが、多い気がします。この棟梁のように
プロ意識をもって仕事をしてほしいものです。一部の人のせいで多くの人が迷惑してますからね。
歴代城主は誰
歴代城主一覧
1代目・赤松貞範(1346年) | 2代目・小寺頼季(1349年) | 3代目・小寺景治(1352年) | 4代目・小寺景重(1358年) | 5代目・小寺職治(1403年) | 6代目・山名持豊(1441年) |
7代目・赤松政則(1467年) | 8代目・小寺豊職(1470年) | 9代目・小寺政隆(1491年) | 10代目・小寺則職(1519年) | 11代目・八代道慶(1531年) | 12代目・黒田重隆(1545年) |
13代目・黒田職隆(1564年) | 14代目・黒田孝高(1567年) 後の黒田官兵衛 | 15代目・羽柴秀吉(1580年) 後の豊臣秀吉 | 16代目・羽柴秀長(1583年) 秀吉の弟 | 17代目・木下家定(1585年) | 18代目・池田輝政(1600年) |
19代目・池田利隆(1613年) | 20代目・池田光政(1616年) | 21代目・本多忠政(1617年) | 22代目・本多政朝(1631年) | 23代目・本多政勝(1639年) | 24代目・松平忠明(1639年) |
25代目・松平忠弘(1644年) | 26代目・松平直基(1648年) | 27代目・松平直矩(1648年) | 28代目・榊原忠次(1649年) | 29代目・榊原正房(1665年) | 30代目・松平直矩(1667年) |
31代目・本多忠国(1682年) | 32代目・本多忠孝(1704年) | 33代目・榊原政邦(1704年) | 34代目・榊原政祐(1726年) | 35代目・榊原政岺(1732年) | 36代目・榊原正永(1741年) |
37代目・松平明矩(1741年) | 38代目・松平朝矩(1748年) | 39代目・酒井忠恭(1749年) | 40代目・酒井忠以(1772年) | 41代目・酒井忠道(1790年) | 42代目・酒井忠実(1814年) |
43代目・酒井忠学(1835年) | 44代目・酒井忠宝(1844年) | 45代目・酒井忠顕(1853年) | 46代目・酒井忠績(1860年) | 47代目・酒井忠惇(1867年) | 48代目・酒井忠邦(1868年) |
江戸時代になると城主がコロコロ変わっているのは、家督を継いだ人物が幼少のため国替えをさせられたからです。姫路城は豊臣派だっ
た大名を牽制するために重要な役割していたため幼い子供には任せられないという理由からです。
中には歴代に名前を残しているひともいますが、こんなに多くの人が城主をつとめていたんですね。
お城に住むってどんな感じなんやろう?天守閣から城下町を眺めたりしてはったんかな。時代によっては戦のために大事な土地だったん
やろうけど、その土地の人たちにとっては大事なシンボル、城主を務めるのも大変やったんやろうな。
井戸にまつわる伝説 お菊さん

姫路城にはお菊さんが投げ入れられた井戸があるって知っていますか?
江戸時代からさかのぼる事100年以上前。室町時代にすでに存在していました。その名も『播州皿屋敷』。
部下の謀反
小寺則職(こでらのりもと)若くして姫路城の城主になりました姫路城執権の青山鉄山(てつざん)は、城を乗っ取ろうと、城主を増位
山の花見の宴で毒殺しようとたくらんでいたのです。
鉄山の企みを察した城主の忠臣、衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、自分の愛人であるお菊を鉄山の屋敷に奉公に行かせて企みを探らせ
る事にしたのです。
お菊は鉄山の息子小五郎から父である鉄山の陰謀を聞き出すことに成功
そして、お菊からの知らせを聞いた元信は、花見の宴で城主を毒殺しようとする鉄山の企みを見事そしすることができました。
その後もお菊は、鉄山の屋敷で動向を探り続けていましたが、お菊を怪しむ人物があらわれたのです。その人物とは鉄山の家臣・町坪弾
四郎(ちょうのつぼだんしろう)でした。
ところが、弾四朗は「自分のものになれば、黙っててやる」とお菊に言い寄りました。なぜなら弾四朗は以前からお菊に好意を持ってい
たのです。しかし、お菊はその条件を聞き入れませんでした。挙句の果てに弾四朗に折檻されますが、それでも頑なにに言うことを聞か
ないお菊の事がだんだん憎らしくなってきました。
弾四郎は鉄山が大切にしている家宝の10枚の皿のうち、1枚を隠しその罪をお菊に負わせました。さらに弾四郎はお菊を自らの屋敷に連
れていき、庭の松の木に縛り付け、最後にはお菊を切り殺し庭の井戸に投げ込んだのです。
それからというもの夜な夜な井戸の底から悲しげな女のか細い声で
「一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚・・・・・」
と皿を数える声が聞こえるようになったのです。
そのお菊が投げ込まれた井戸がお菊井戸だと言われています。
このときお菊が投げ込まれたとされる井戸は「お菊井戸」として現在も姫路城内にあります。
もしかしたら、江戸時代の皿屋敷の話は、この姫路城の話が元になっているのかもしれないですね。
これは、本当の話か作り話か定かではありません、井戸のある場所が秘密通路になっていたので怪談話を流して人を寄せ付けないように
したとか、本当のはなしなら許されないことです。
怖い話やけど、作り話であってほしいなと思います。
まとめ
簡単ですが、姫路城について紹介しました。
切ない話や怪談話まで姫路城にまつわる話も紹介しましたが、いかがでしたか?
始めは砦から始まり素晴らしい漆喰壁のお城になり平成になってからも改修工事が行われその時テレビで職人さんが漆喰を塗っているの
を見てお城だけではなく職人さんの技術も後世に引き継がないといけないんやなとおもいました。
昔ながらの職人さんも後継者がいなくて、なくなっていく技術もあるとみた事があります。自分にはどうすることもできないもどかしさ
この記事をパソコンで書いている時点で現代技術にどっぷり使っていますが、たまに昔ながらのものに触れるとなんか懐かしくかんじます。
姫路城に行ったことがありますが、中に入らず外からしかみていないのでバスツアーで行ったので時間がなく次回は、中まで行きたいと
おもいます。
では、今回はこのへんで。ありがとうございました。