比叡山延暦寺の歴史を年表で簡単に紹介!焼き討ちの理由・真実に迫る!

2019年12月19日

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こんた

こんにちは、今回比叡山延暦寺の歴史を紹介します。

 

2020年の大河ドラマ麒麟がくるに先駆けて、絶対出てくるであろう場所を紹介。

比叡山延暦寺がドラマに出てこない方がおかしいぐらい重要な出来事焼き討ちがあった場所

と、言うわけで

  • 比叡山延暦寺ってどんな寺?
  • 比叡山延暦寺の歴史を年表で紹介
  • どうして焼き討ちにあったの

など、紹介します。

実は三度も焼き討ちにあっていた!とか調べていて初めて知った事も…。

 

比叡山延暦寺とは滋賀県にあります。日本一大きい湖、琵琶湖がある県です。

ゆるキャラひこにゃんも有名ですね。ひこにゃんがいてるのは、彦根城ですが…。彦根城もちゃんと紹介しますね。

 

ですが

今回は、比叡山延暦寺の歴史を紹介します。

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比叡山延暦寺とはどんなお寺

比叡山について

比叡山は京都と滋賀の境にある山です。(滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部)

比叡山は、大津市と京都市左京区の県境に位置する大比叡と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ)の2つの頂がある双耳峰(そうじほう)の総称です。

東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景色がいい場所です。

 

百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」、比叡山を日本一の山と詠んでいます。

慈円(じえん、(1155年5月17日) -(1225年10月28日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されています。

 

天台宗総本山 比叡山延暦寺(世界文化遺産)

比叡山には、平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)が建立した延暦寺があります。(滋賀県大津市、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院)日本天台宗の本山寺院です。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括しています。

織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたことは有名ですが、その後、豊臣秀吉、徳川家光らが再興しています。

1994(平成6)年、1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受けユネスコ世界文化遺産に登録されました。

世界遺産に登録されている比叡山延暦寺。平安末期から鎌倉時代はじめにかけては、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮といった一度ぐらいは名前を目にしたことがある各宗派の開祖たちが比叡山で学んでいたそうです。

 

そんな凄くて1200年もの歴史がある延暦寺、なぜ焼き討ちにあうことになったのか?

今では、観光地になっている、比叡山。紅葉や京都が一望でき琵琶湖も眼下に望める景色がいい場所です。

 

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こうさん

なぜ、焼き討ちにあったのか気になりますね。

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おつさん

その前に、年表から簡単に歴史を振りかえってみたいと思います。

 

比叡山延暦寺の歴史を簡単に年表で紹介

766年 (767年説も)。延暦寺の開祖・最澄が生まれる。

780年  最澄 近江国分寺・行表に出家をする。

785年 青年・最澄、郷里に近い比叡山に小堂を建て修行と経典研究に明け暮れる

785年 奈良の東大寺で正式の僧となるための戒律を授けられる、正式の僧となる

788年 最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立する。一乗止観院と名付けた。この寺は比叡山寺とも呼ばた

802年 最澄は短期留学として、唐に渡航することが認めらる。

804年 遣唐使船で唐に渡った最澄は、大陸で仏教をまなぶ。

805年 帰国した最澄は、天台宗を開く。

法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。後に延暦寺から浄土教や禅宗の宗祖を輩出した源がここにあるといえる。

806年 日本天台宗の開宗が正式に許可される最澄が生涯かけて果たせなかった念願は、奈良の旧仏教から完全に独立して、延暦寺において独自に僧を養成することでした。僧侶になるためには国家資格がいるため。その儀式を行える「戒壇」は日本に3箇所(奈良・東大寺、筑紫・観世音寺、下野・薬師寺)しか存在していなっかたのです。

比叡山で後進の指導、日本各地で仏教界のリーダーとして活動させたいと主張したが奈良の仏教界から大反対にあいます。

822年 大乗戒壇の設立は、最澄の死後7日目にしてようやく許可されました。

823年 最澄の没後。年号をとった「延暦寺」という寺号が許される

平安末期から鎌倉時代にかけては、いわゆる鎌倉新仏教の祖師たちが比叡山を母体として独自の教えを開いていった。

比叡山で修行した著名な僧としては以下の人物が挙げられる。

良源(慈恵大師、元三大師 912年 – 985年)比叡山中興の祖。

源信(恵心僧都、942年 – 1016年)『往生要集』の著者

良忍(聖応大師、1072年 – 1132年)融通念仏宗の開祖

法然(円光大師、源空上人 1133年 – 1212年)日本の浄土宗の開祖

栄西(千光国師、1141年 – 1215年)日本の臨済宗の開祖

慈円(慈鎮和尚、1155年 – 1225年)歴史書「愚管抄」の作者。天台座主。

道元(承陽大師、1200年 – 1253年)日本の曹洞宗の開祖

親鸞(見真大師、1173年 – 1262年)浄土真宗の開祖

日蓮(立正大師、1222年 – 1282年)日蓮宗の開祖

1435年 足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首した

1499年 管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻める

1571年、信長は、9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

1994年 延暦寺は「古都京都の文化財」の一環としてユネスコの世界遺産に登録されている。

 

1200年も歴史ある、延暦寺の主な出来事だけですが、年表で紹介してみました。

1200年って想像もつかないぐらいの長さですが、廃寺になっていくお寺もたくさんあった中で現在ま続いてきた、その中でいろんな出来事があったと思います。有名なのが焼き討ちですが次からその焼き討ちについてです。

なぜ?焼き討ちにあったのか、真実と理由を調べてみた

なぜ?焼き討ち事件が起こる事になったのかその理由とは、延暦寺の本質!

比叡山・延暦寺といえば織田信長に焼き討ちを受けたのは有名ですが、武家との抗争はこれが初めてではなく、実は三度も主要な建物が焼失している事件が起こっていたのです。

 

信長が初めてちゃうの?ってびっくり学校で教えてくれる歴史ってほんの一部の出来事だけやねんなって、思った次第です

 

また、比叡山焼き討ち事件って、寺院が舞台だけに、刀や槍を持った武士たちが一方的に無抵抗な僧侶たちを、無残に殺害したのとちゃうの?と、思われがちですが。それも、間違いです。何故なら

桓武天皇から信奉された開祖・最澄(さいちょう)の願い通りに優秀な僧侶が育っていく中で、朝廷や鎌倉幕府を圧迫できるほどの、強大な権勢を持つようになっていったのです。特に最澄の弟子だった円仁派円珍派が仲間割れをしてからは、実力行使のために武装化を図っていきました。彼らはやがて僧兵となり、延暦寺の性格を大きく変えてしまいます。

 

最澄が亡くなって200年ほど後の平安時代に院政を敷き、朝廷を支配していた白河法皇は「山法師(比叡山の僧兵のこと)は朕が心にままならぬもの」と、延暦寺の僧侶たちを、制御することが出来ないとを嘆いています

延暦寺は時の権力者たちも容易に手を出せないほどに、宗教的な威光と軍事力を備えた、聖域になっていたのです。

 

また、平安時代より勢力を強めてきた延暦寺を朝廷も手を焼く存在になっていました。何せ気に食わない事があると武力勢力を持たない朝廷に神輿を担いで突撃し朝廷がご機嫌とりをするくらいだったとか…。

立派な教えを持っているお寺が、仏の教えに反し武力をもって、他を制する。非道をするのが当たり前に…。そのため平安後期には敵を多くつくる存在になっていたようです。

 

僧兵は、もともとは自衛目的で始まったのがだんだん度が過ぎていき他者のものまで、うばうようになっていったようです。比叡山の僧兵の進軍や武力により、寺社を奪われたり傘下に無理やり納められたりと、とても仏の教えとは思えない行動をしていたんですね。

 

また、鎌倉幕府を開いた源頼朝も、延暦寺の要求により重臣の佐々木定綱を、追放せざるを得なくなってしまうという事件も!

 

仏の教えに反して、だんだん武力により権力をつけていったんですね。朝廷や幕府までも言われた通りにするって、よっぽどひどい状態だったんやと思います。。1200年も歴史あるお寺なのに過去にはあまり評判も良くない時代もあったんやね。

中には真面目に仏の道を全うしてた人もいたと思いたいですけど…。

一回目の焼き討ち!? 足利義教が制圧を試みる

室町幕府の6代将軍・足利義教(よしのり)が、延暦寺を制圧し従わせようとした最初の権力者です。

将軍になる前に義教は、天台座主(てんだいざす)という地位で、比叡山の長を務めていたん(延暦寺のトップ)です。それゆえ将軍になってからも延暦寺を従わせようと考えていました。

 

非常に義教は支配欲が強い人物でした。なので京都の近くに、朝廷や幕府からも独立した勢力が存在していることを、許せるはずがなく、だから延暦寺を幾度となく従属化させる事を試みていました。

 

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こんた

将軍、義教自信も延暦寺にいて内情もわかってるはずなのに。その義教でも従属化させる事が出来ないって凄い勢力としかいいようがないですね。

 

延暦寺の僧が義教に呼び出され、斬首される

 

しかし、義教はなかなか自身の思い通りに行動することができませんでした。何故なら、制圧しようとするたびに諸大名から反対の声が上がり、話し合いを勧められることが多かったからです。

業を煮やした義教は、とうとう斬首するという強硬手段に出ました。1435年に延暦寺の有力な僧たちを招き、その席で捕縛し、斬首したのです。

 

当然のごとく、怒って反発した延暦寺の僧たちは「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」に立て籠もって義教を非難!

 

根本中堂とは比叡山の中核を成す重要な宗教施設です。 (開祖・最澄が建てた草庵がその起源)

義教は抗議を受けても、延暦寺に対する厳しい姿勢をゆるめることはありませんでした。やがて絶望した僧たちは根本中堂に火を放ち、20人以上もの僧侶が焼身自殺を遂げたのです。

焼き討ちでは、ありませんがこの時に他の建物も焼かれており、初めて延暦寺が大規模に焼失した事件なのです。

 

強硬手段が、斬首とはなんとも言えないです…。義教も元々は比叡山にいたはずなのに、人を殺めるのは仏の教えに反してると思うのですが。今の時代に生まれ育った自分には、衝撃的に感じる出来事です。

それに、焼身自殺とか集団心理がそうさせたのかな?今も続くお寺ですし、なぜこのような結末を迎えたのか…。有名な僧侶も輩出しているから不思議です信仰を信じいる信者の方も多くいたからこそ1200年もの歴史があるんだと思うんやけど。

 

義教の死後、延暦寺はさらに武装強化を図る!

将軍・義教は史上初の、延暦寺に勝利した権力者です。

義教はその後、焼失した建物を再建させています。徹底的に滅ぼそうとまでは思っていなくただ自分に従いさえばそれでよかったのです。

しかし、義教がやがて「嘉吉(かきつ)の乱」で殺害されると、義教の厳しい措置の影響を受けて、延暦寺は自衛のための武装強化を図るようになります。数千規模もの僧兵を増強し、権力から独立した状態に戻っていきました

 

さらなる事件を延暦寺に呼び込むことに…。この時は誰も想像しなかったでしょう。

嘉吉の乱(かきつのらん)は、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府6代将軍足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱である

2回目は、細川政元に焼き討ちされる

1499年になると、今度は室町幕府の管領(将軍の補佐役)・細川政元によって焼き討ちされる事件が発生

10代将軍の足利義稙(よしたね)が、政元が起こしたクーデターによって追放され、(政治方針で対立した足利義稙と細川政元が原因)室町幕府は混乱状態でした。

 

政元は代わりに11代将軍・足利義澄(よしずみ)を擁立し、幕府の実権を握ります。

しかし追放された足利義稙は政権復帰を諦めてなかったので、将軍家が二つに分裂した状況になりました。

 

いつの時代も政権争いがありますね。まぁ、個人的には私利私欲にまみれた人が上にたって欲しくないと思いますけどね。

 
そこに、延暦寺が幕府の争いに介入する事に!

 

足利義稙は北陸に逃れました。そして、周辺の守護大名たちの支援を受け、軍勢を引き連れ上洛し、権力の奪還をはかります。

この時に延暦寺は足利義稙を支持、幕府の権力争いに介入していったのです。

完全に寺院という立場を見失った、誤った判断だったのではと思います。

僧兵を強化し武装化したことで、思考が武家に近くなっていたのではないか、完全に仏の道から脱線していると思われても仕方のない事ですね。

 
政元!延暦寺への攻撃を決断する!

北陸から近江まで足利義稙が進軍してくる!と、政元は焦りました。

 

京都は比叡山の近くにあったため、比叡山にもし足利義稙の軍勢が入るとは数万の兵を収容できる軍事拠点となるからです。そうなると戦術的に政本は不利な立場に置かれてしまいます。

このままでは敗れる可能性があるため、政元は延暦寺への攻撃を決意。7月11日の早朝から、家臣に命じて焼き討ち決行しました。この攻撃で、延暦寺は再び大きな打撃をうけました。根本中堂を初めとして、大講堂や法華堂など、主要な施設は全て焼失したのです。

 

武装し武家に立ち向かった挙句まさか大打撃をうけるとは、思っても見なかったのではないのかと思います。自分達の力を過信していたかもしれませんね

 
延暦寺の権威が衰えていたことが証明される事に?

ためらいのない政元からの攻撃。そこから見えてくることは、

すでに人々の延暦寺に対して崇拝・崇敬の心も、相当に衰えていたように思われます。殺生を禁じるのが仏教の教え、それをないがしろにし僧兵を蓄えるという矛盾、武家の権力争いに加担、世間の延暦寺を見る目も冷たくなっていたのだと思われます。この時の延暦寺は、人々から敬意を払われるのは、あくまでその教えを守ってこそと言う基本的な事をを見失っていたのかもしれないですね。

 

延暦寺は大打撃を受けたにも関わらず、また、同じ過ちを繰り返します。

3回目は、織田信長による焼き討ち

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こうさん

2度あることは3度ある。そんなことわざがありますが、本当に2度ある事は3度あるになったんやね。

 

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おつさん

三度目の正直にならなっかたんやね。なぜ、今も昔も人は同じ過ちを繰り返すんやろう?

北近江の大名・浅井長政と、越前の大名・朝倉義景と争っていた織田信長により、1571年あの有名な焼き討ち事件が発生する事になりました。

 

この時も政元の時と同じく、延暦寺は武家の争いに関与してしまった形になったからです

 

なぜ、焼き討ち事件までに?そのきっかけの始まりは、信長による比叡山領の横領による対立です。延暦寺の住職の働きかけにより信長に朝廷から寺領回復の文書が出されましたが、信長は従いませんでした。

 

この当時、室町幕府15代将軍・足利義昭の存在が後押しする形になり、信長はかなり勢力を伸ばしていました。

もともとは義昭は仏門に入っていましたが、実兄の13代将軍・足利義輝が暗殺されたことで、将軍職を引き継ぐために上洛。しかし、危険が多い道中の援護を足利家と縁のある朝倉義景に依頼しました。ところが朝倉は乗り気ではなっかたのです。

 

そこに白羽の矢が立ったのが当時勢力を強めていた織田信長です。義昭は信長に頼り、これにより晴れて義昭は将軍となりました。この事がきっかけで信長は大名の中でも優位な立場を手に入れ、朝廷との関係を強化できたのです。

義昭を通して権力を手にいれた信長を、朝倉義景は良く思っていなかったので、信長から将軍に挨拶するよう命じられてもいうことをきかず、また将軍である義昭からの要請にすら従いませんでした。
その態度に腹を立てた信長は朝倉軍を攻撃、しかし、ここで同盟を結んでいたはずの浅井家に背後から攻められました。
信長にとって予想外の出来事。信長にしたらまさか義理の弟に攻められるとは思ってなかったはずですからね。(浅井長政の妻は信長の妹・お市)長政は義理の兄であり同盟を結んでいる信長を裏切り、朝倉家を優先しました。
1570年、信長の支配下にあった南近江を浅井・朝倉連合軍が進軍、朝倉連合軍と信長の衝突は「姉川の戦い」が有名ですね。信長はこれに勝利。信長の軍勢が側まで迫ってくると、比叡山で籠城を始めます。浅井・朝倉軍を包囲した信長は戦いを挑みますが、これに応じず籠城を続けました。
信長は早く決着をつけたいので、延暦寺対して浅井・朝倉軍を追い出すように要請。浅井・朝倉と手を切って自分の味方をすれば領地を返す、従わないならば焼き討ちにすることを伝えましたが、延暦寺はこれを拒否しました。この対応により、信長から延暦寺は、敵対勢力だとみなされることになったのです。
 
信長は延暦寺への攻撃を決意!

 

信長はこの時、摂津や伊勢の一向一揆と、三好三人衆などの諸勢力からも攻撃を受けていました。そのため延暦寺周辺周辺に多くの兵を留めている間に情勢は不利になる一方でした。信長の焦りといらだちは相当なものだったんでしょうね。そんな状況に延暦寺に対する怒りや憎しみがたまっていったとおもわれます。

 

信長はこの危機を将軍・足利義昭や朝廷に仲介を依頼し、浅井・朝倉軍と和睦して切り抜けました。

 

当時の寺社勢力は、政治や軍事などの面でも大きな力を持っていたため、特に比叡山延暦寺は広大な寺領や経済力、多くの僧兵を抱え一大名と同等はある巨大勢力でした。延暦寺と敵対した状況が続くと、再び信長の軍事行動を妨害してくる可能性があったため、信長は翌1571年になると、延暦寺を完全に破却して、軍事拠点としての機能不能にすることにしました。

 

延暦寺は攻撃中止を要請するも、信長に拒否される

 

信長は3万の軍勢を率い、9月11日に延暦寺を包囲しました。恐れをなした延暦寺は、金貨300枚を贈って信長に攻撃中止を要請します。しかし受け入れられることはありませんでした。

金貨を多量に所有していたのは、高利貸しを行っていたため、お金が返せないなら、その人の土地や財産を根こそぎ奪っていました。戦国時代の頃には日本の多くの土地を延暦寺が所有するような状態となっていたのです。お寺と言えどもお金や土地を貸すことでお金儲けをする巨大な組織今の時代で言う高利貸しですね、すでにお寺の本質は無かったようですね。

 

このことも信長が焼き討ちを行った理由の一つでもあるようです。

 

信長は翌日の早朝からの攻撃開始を決定します。

早朝にしたのは重臣の池田恒興から「夜になると闇にまぎれて逃げおおせる者も出てくるでしょうが、早朝を待って攻めれば、1人も討ち漏らすことはないでしょう」と進言されたためで、織田軍全体が延暦寺への攻撃に積極的だったんですね。

 
延暦寺が焼き払われ、数千の人々が犠牲に

9月12日の早朝に、信長は総攻撃を開始し、根本中堂を初め、主要な建物を全て焼き払い、僧侶や女、子どもにいたるまで、数千人もの人が無残に殺されました。その中には、美女が含まれていたとか、延暦寺の周辺には遊女も住み着いていたためで、それほどに風紀も乱れていたようです。女人禁制のはずやったのに…。

 

しかし、実際には先の細川政元の焼き討ちの際に、既に焼失していた建物が多く、信長の焼き討ちで焼失したのは根本中堂、および大講堂のみであった、という調査結果があります。

 

この時数多くの僧侶や住民が無残に殺されたんですね。犠牲者の数は、「信長公記」では数千人、「言継卿記」では3000~4000人と記録には残っています。

信長によって焼き討ちが行われたのは歴史上確かであり、信長は延暦寺の再建すら許さなっかたのです。その後しばらくの間、延暦寺は荒廃した状態で放置されることに。

寺院でありながら、武家の闘争に関与したことへの、罰があったたんでしょうね。子供まで、犠牲になるなんて悲しすぎます。

 

比叡山は本来、京都の鬼門を封じる重要な役割を果たしていた寺院で、朝廷からも大事に扱われていたのはずなのに、世間の信長に対する非難の声はほとんどなく、朝廷から正式に抗議されることもなかったということは、その評価も大きく下がっていたんですね。

江戸時代の歴史家・新井白石も「残忍な行いではあるが、比叡山の凶悪を除いたことは、天下への功績だ」と記しており、後世からは、むしろ信長の焼き討ちは評価されているほどでした。

 

焼き討ち後の処理を家臣である明智光秀に任せました。信長は、その後も近江の寺院に放火して寺領・社領を没収していきます。

没収したこれらの領地を、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の5人に分配されました。光秀はこのときの領地に坂本城を築き支配していきます。光秀といえば後に信長を討つ人物ですが、この時点では信長の家臣として大きな役割を担っていたことがわかります。

 

生き延びた延暦寺の僧たちは、信長に代わって天下を制した豊臣秀吉や、徳川家康に接近し、武家との関係を改善します。

江戸時代に入り1634年、徳川幕府の3代将軍・家光によって根本中堂の再建事業が開始され、1641年に完成しました。

 

現在の根本中堂は、この時に建築されたもので、1953年には国宝に指定されています。

江戸幕府はすべての寺院を統制下に置き、好き勝手ができないように制御し、以後の延暦寺が、独自の権力を保有したり、僧兵を蓄えるようなことはなくなりました。

 

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こんた

江戸時代になってやっと、本来のお寺の姿に戻っています。いろいろな出来事があったんですね。

 

まとめ

今回は、比叡山延暦寺の歴史。焼き討ちにあった理由など、紹介しましたがいかがでしたか?

歴史の事を調べてると史実や、言い伝えなどその人の趣味主観などで、書いてあることが多くいろいろ違ってたりと、面白くもあり自分が書く時には困る時もあります。でも、学校で習った事以外の歴史を知ると楽しいしまた、研究が進んできて習ったことが今では間違えた事を覚えといたりと…。

 

今回は、信長以外にも比叡山を攻撃した人が他にもいたと事を知ったのが自分の中では収穫でした。

歴史を調べてると難しい言葉が出てきたり国語の勉強しとけば良かったと後悔…。

 

まとめとして、どこで仏の教えから脱線していったのか?でも、その中で有名な僧侶も輩出してるのも事実やし、長い歴史からみたらほんの短い期間だけだったんやろうなとは思いますが、高利貸しをしたり、風紀のみだれがあったりと、最澄の教えを貫いていたら多くの人の血も流れることなく、命を落とす事もなっかかも知れないですね。

始めは、仲間内の仲間割れから始まってどんどんエスカレートしていた結果、人を救い教える立場の僧侶が血を流す事になる結果になってしまったの悲しいですね。

 

今では、世界遺産にまで登録されてる素晴らしいお寺です。過去があるから今に繋がっているんですね。

 

今回は、このへんで最後まで読んで頂きありがとうございます(≧▽≦)

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Posted by ゆずころ