明智光秀が築城福知山城の歴史を紹介!石垣に使われているのは…。

今回は、福知山城の歴史を紹介します。
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』主人公 明智光秀にちなんだゆかりの場所。
- 福知山と光秀の関係は?
- 福知山城の歴史を紹介
- 石垣は、墓石?転用石って何か?
など、調査しました。
光秀と福知山
福知山城あるのは京都府福知山市にあります。
光秀のゆかりの地福知山との関係は丹波国を平定したことからはじまります。どのよう平定に至ったのでしょうか?
織田信長の命令により光秀は丹波国の征討戦を開始します。
黒井城の戦い、赤井氏の堅城黒井城への攻城戦。1575年と1579年の2度に渡って行われています。一度目は赤井直正・波多野秀治連合軍
明智軍は黒井城の前方(南側)にあたる「平松」という土地に移動
黒井城の東側:大路城主 波多野秀香軍
黒井城の西側:霧山城主 波多野秀尚軍
黒井城の北側:八上城主 波多野秀治軍 と黒井城の四方に陣取り
光秀が黒岩城を攻める準備が整ったところを、三尾城城主 赤井幸家(直正の弟)に襲われ光秀は敗北して京に帰ります。
2度目は、篠山の波多野秀治の本拠地・八上城と丹波の赤井直正の本拠地・黒井城の連携を断つため金山城を築きこれが功をそうし、また、黒井城の支城もほとんどが落城していて弱体化していたこともあり、また光秀も1度目の失敗を繰り返さないように作戦をたて敵を翻弄させ勝利します。
横山城の戦い、丹波国の掃討戦が開始され、山城城や猪ノ崎城や横山城を落城させてこれで、国人衆は皆、明智光秀に降伏し丹波国の平定を成功させました。
福知山城の築城によりこの地を「福知山」と改めました。
光秀のゆかりの地でもある場所ですが、信長命令でこの地と関わっていったんですね
平定が失敗に終わってたら福知山の地名もなかったかもしれないですね。一つの出来事で歴史が動くって考えただけでも面白いです。
福知山城の歴史と歴代城

福知山城の歴史と歴代城を見ていきましょう。
- 1579年明智光秀が、横山城を攻略する、近世的な城郭を築きました
- 丹波国を平定すると、横山城を福知山城と改名する
- 福知山の城下の基礎をつくります
- 福知山城の城主は、甥で女婿にあたる家臣・明智秀満
光秀自信は、居城してなかったんですね。
光秀没後(本能寺の変後)は豊臣秀吉の家臣が管理したと言われています
- 豊臣秀勝(1582年) 丹波亀山城を居城をしていたが城主となるが次いで杉原家次が城主となる。※織田信長の四男で、養父:豊臣秀吉、養母:ねね 1585年丹波亀山城で病死した。享年18
- 杉原家次(1583年~1584年) 山崎の戦い後、秀吉によって明智光秀の丹波福知山城を与えられた秀吉の家臣。丹波福知山城および近江坂本城主。1584年病死
- 小野木重勝(1587年~1600年) 豊臣氏の家臣
関ヶ原の合戦後、
- 有馬豊氏(1600年~1620年) 豊氏は初代福知山藩主として今に残る城下町の形態と壮大な城郭が整備した
- 岡部長盛(1621年~1624年) 1615年の大坂夏の陣で功績を挙げ、1621年に福知山5万石に加増移封された
- 稲葉紀通(1624年~1648年) 寒ブリが原因で自害 詳しくはこちらをクリック➡寒ブリ事件
- 松平忠房(1649年~1669年) 三河吉田藩の第2代藩主。三河刈谷藩主、丹波福知山藩主を経て、肥前島原藩の初代藩主となる
- 朽木稙昌(1669年~1708年) 5000石加増の3万2000石で丹波福知山藩に加増移封された
その後朽木氏は福知山藩主として幕末まで在城しました。1871年(明治4年)に廃城。1873年(明治6年)廃城令により、解体されて建物や堀、石垣もかなり失われています。福知山城の遺構として天守台と本丸の石垣が残されています。
現在は、1986年(昭和61年)には大天守(郷土資料館)が完成
築城した光秀自身は、ほとんど住んでなかったんですね。明治にはいり廃城令により解体されてしまうのは、時代の流れで仕方ないのかな、西洋文化が入ってきてだんだん日本の独自の文化がなくなっていくのは寂しですね。
なぜ?石垣に墓石が…
福知山城の石垣には、転用石がつかわれています。
転用石というのはもともと違うものに使われていた石のことなんです。
墓石として使われていた五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、石仏など使用されています。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い

本当に墓石使ってもだいじょぶなの?罰あたるよ。

絶対罰あたるよ!結構な数の墓石使われてるよ。
福知山城の石垣には、もともとこの地にあった宝篋印塔、五輪塔などの石造物「転用石」が大量に使用され、「転用石」の点数は、現在おおよそ500点、五輪塔が約250点、宝篋印塔基礎が約35点となっています
福知山城の石垣で、今現在見える場所だけでも約500個位の転用石が確認されてます。
って、結構な数ですよね。すごい罰あたりな気がするんですけど…。
やっぱり罰があったたんですかね(・・?
福知山城石垣の転用石
野面積み、乱石積み で未加工の自然石が積み上げられています。五輪塔や宝篋印塔、石仏、石臼などが使われ、転用石と呼ばれているようです。なぜか不気味に思えます! pic.twitter.com/9xZqD6PgGP— 藤麿呂 (@mukyuuwoou) 2018年6月16日
石垣は、「野面積み」「乱石積み」「穴太積み」
と呼ばれる自然石をそのまま利用されている方法で積まれています。
この時代、築城ラッシュで石垣の石が足りなかった見たいですね。
今の時代と、違って重機があるわけじゃないですから、人力で、運んだり大変だったんでしょうね。
まとめ
福知山城、個人的にはお城より石垣に興味がわきました。
石垣一つとってもいろんな形があるんですよね。大阪に住んでいるので大阪城の石垣のイメージが強すぎて…
墓石使われてるなんて、本当にばちがあたったのかな光秀の最期を思うとそう思わずにいられないですが。
歴史は日々の発見で変わっていきますからね、どうして本能寺の変を起こしたのか…、いろいろ説がありますが大河ドラマではどの説になるんでしょうか?今から楽しみです。
今回は、来へんでありがとうございました。
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ファセット ペパークラフト 福知山城 1/300スケール(29)
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